彼が胸に宿す野望の前では、私の声なんてどんなにちっぽけなものだろうか。
私の心優しい主君は他者の機敏に敏い。ゆえに彼自身が苦しむことも多々あるが、それは誰もが持っている訳ではない彼の美点だと昔から思っている。だが、そんな美点のせいで彼の顔が曇るのは望むことではない。
「エッタ、どうしたの? 落ち込んでる……?」
そこまでではない、ただ少し考えることがあっただけだ。瞳を心配に陰らせてこちらを覗き込むヒースクリフへ微笑んで応える。
「いえ、落ち込むようなことではないです。自己嫌悪ですらありませんから」
笑いながら、とはいえ、口から出た台詞は自嘲以外のなにものでもない。案の定それを聞いてしまった優しい主君は傷付いた表情をその麗しい顔に浮かべた。自分の大事にしているものを他の人にも大事にされることを望む彼だから、彼女が嘲るアリエッタ自身にも思いを寄せて心を痛めてしまうのだ。
「何があったのか、俺が聞いてもいい?」
ゆっくりと溶けてゆく優しい声に促されて頷く。先程、賢者に言われてからずっと引っ掛かっている言葉を吐き出す。
「シノが手柄を焦っているみたいって賢者様に言われて、もやっとしたんです。私は今のシノのままでもいいと思っているんですが……でも、私のそんな言葉なんて、何の意味も無いですよね」
私は彼に何もあげられない。
例えば、誰もが振り向くほどの美貌が、皆が耳を傾けたくなるような歌声が、私にそんなものがあれば。もっと力があれば。シノがどれだけ素晴らしい魔法使いなのか世界中に伝えられたのに。私には何も誇れるものがない。ファウスト様の指導者としての評価も、ネロさんが作るご褒美のレモンパイも、ヒースが主君として彼を頼る言葉も、賢者様が作った胸に輝く勲章も。私では彼に贈ることができないものばかり。
そんな詮無きことをぐだぐだと言われたところで困ってしまうだろうに、ヒースクリフは言葉一つも取りこぼすことなくそれらを拾い上げる。そうして緩く首を振った。
「そんなことない、エッタはそのままでも十分……。俺も……きっとシノも、助けられてるよ」
「そうでしょうか……ありがとうございます。そう言って頂けて……」
「──エッタ! 」
優しいヒースクリフの言葉は実感の薄いものだったが、彼の厚意に感謝の言葉を述べる。そのとき、よく通る声に名前を呼ばれた。振り返ってみるとシノがまっすぐ此方へ向かってきているところで、その表情は面白くなさそうに歪んでおり、不機嫌なのが分かった。しかしどうしたのかと聞こうとする前に彼の方から口を開く。
「チーズケーキはどこにある」
「お前いきなり何言ってるんだよ……」
「あっ、そうだった……!」
隣のヒースクリフは呆れ返ったが、私はその言葉にはっとして今日の朝にシノとした約束を思い出した。彼が朝から賢者様に依頼されて任務に出るというので、帰ってきたときのためにケーキを焼いておくと言っていたのだ。
「ごめんなさい、オーエンさんに食べられてしまったんです。代わりにネロさんがレモンパイを焼いてくれてましたよ」
だが偶然か匂いを嗅ぎつけてやってきたのか、有無を言わせず彼にすべて食べ尽くされてしまった。それを知ったネロさんがレモンパイを焼いてくれたので、厨房にはそれがあった筈だ。気付かなかったのだろうかと思ったが、シノは顔色一つ変えず頷く。
「あぁ、知ってる」
「ならいいじゃないですか」
「ネロのレモンパイは貰う。でもお前のケーキが要らないとは言ってない」
それが当然だといわんばかりに宣うシノにヒースクリフが思わず噴き出した。何故笑われたのか分からないシノはきょとんと彼の方を見て、まぁいいかと私の方へ視線を向ける。ほら早く、と手を差し出される。
「ネロのパイはうまい。けどお前のケーキは特別だ」
作ってくれ、と強請る声に「解りましたよ」と笑って返す。
私が彼に渡せるもの。それは本当にちっぽけなものかもしれないけれど、それを欲しいと言ってくれるのならば。
for you
