シノは長く続く石畳の階段を上がっていく。ブーツと硬い床がぶつかってカツカツと音を立てるのに気を良くしながら、彼の足は止まらない。
かつて迷子になったブランシェット城よりも、賢者の魔法使いとなってすぐに招かれたグランヴェル城よりも、大きく立派にそびえる居城。ついに彼の野望が形になったのだ。
主君であるヒースクリフの部屋はもちろん城の一番高いところに用意した。バルコニーを大きめにしたのはいつでも窓から入れるようにだ。ブランシェット産の家具で揃え、ベッドが窓際に寄せられた部屋は、彼が少しでもマナエリアで落ち着くことができるようにと考えられている。
敷地内には図書館とは別に書庫を用意してファウストのための場所にした。あえて日当たりの良い場所にしたのはよくやってくる毛並みの良い彼の友がいつでも寛げるようにだ。
厨房はネロが過ごしやすいように彼のリクエストを聞いた。そこまでしなくても、と引き下がろうとする彼を説得した甲斐もあり、大きな城に相応しい広さでありながら何処か懐かしさを覚えるつくりをした場所になった。
幼い頃からずっと望んでいたシノの城だ。魔法舎で仲間と呼べる存在と出会ってからは、かつての計画には無かった彼らのための要素も加わっている。それを考えるのは楽しい作業だった。
「シノ、待って下さい」
後ろから声が聞こえる。幼馴染の彼女には緑に囲まれた空中庭園を用意した。シノと同じくらいシャーウッドの森が好きな少女のために誂えられたそこには、いつの間にかリスが棲みついていた。リスに餌をやることが多忙な彼女の息抜きになっていると聞いてシノは鼻を高くした。
(そうだ、お前は遅いからオレが待ってやらないと)
脚を止めて階下からやってくる足音を待つ。柔らかい革の靴底が音を鳴らして近付きシノの近くで止まった。長年の付き合いだ。気配だけでそれが誰だか分かる。
「エッタ、行くぞ」
そう言って傍にある手を掴もうとした。否、実際に掴んだ。だが返ってきたのはまるで木の枝を掴んだかのような感触だった。ぎょっとして視線を下ろす。痩せこけた腕が枯れ木のように伸びていた。温かく働き者だった少女の手は皮と骨しか残っていない。
ひゅ、と喉の奥で息が詰まった。
「まって、しの」
シノの好きなマリーゴールドの髪の毛は真っ白に染まって痩けた頬に張り付いていた。開くことすら苦しそうな皺くちゃな唇が掠れ気味に自分の名前を呼ぶ。それが最後の力だったかのように、老木のような身体が床に崩れ落ちた。
恐ろしくなってしまって思わず手を離す。視線を合わせることも怖くなって固く目を瞑る。ついに温度も無くなっていた。
──置いてかないで。
彼女の声か自分の願いか分からないそれが、ずっと耳の後ろにくっついて喚いていた。
埋葬された夢
「────っ!」
目を覚ましてまず見えた天井は魔法舎の自分の部屋のものだ。シャーウッドの森の小屋でも魔法舎の近くの森でもない。いやに明るいがまだ夜は明けていなかった。窓から差し込む大いなる厄災の光が部屋全体を照らしているせいだ。
寝汗で湿った寝間着がじとりと肌に張り付く不快感に顔を顰める。
見慣れた自室。当たり前だがシノ以外誰もいない。耳を澄ませてみても窓の向こうで鳴く虫や鳥の声が聞こえるだけだ。珍しいことに、シノが把握できる範囲での今夜の魔法舎はひんやりと静まり返っていた。
まるで、誰も生きていないようだ。置いていかないで、とまたどこかで声がした。身体の内側からなのか外側なのかは分からない。ただシノは焦燥感に襲われ、ベッドから降りると靴を履くことも忘れてある場所へ向かった。
夢の中とは全く似ていない景色を進んでいくと、次第に此処が見慣れた魔法舎の廊下なのだと実感が湧いてくる。シノが夢見た何よりも高く立派な城ではない。それで構わない。戦慄きそうになる唇をぐっと結んで足を進め、一つの部屋に辿り着いた。
迷いなくドアノブに手を掛けると抵抗なく軽い音がして下まで下がる。鍵が掛かっていたら帰るつもりだったのに、そんな本当かどうか分からない言い訳とともに音を立てないようそろりと扉を開ける。シノの部屋と同じように、部屋全体が大いなる厄災に照らされていて明るかった。灯りも必要ない部屋の中を迷わず持ち主のところへ向かう。
エッタ。口だけそう動かしても声にはならなかった。散らばったマリーゴールドの髪の毛が白のシーツに鮮やかに映えているのを見ると訳もなくほっとした心地になる。
ベッドに腰を掛ければ一人分の重みでシーツが波打った。横たわる彼女の身体もゆらりと揺れる。不意の動きに眠っていた肩がぴくりと跳ねたかと思うと、そろそろと瞼が持ち上がり寝起きで揺れる眼差しが段々覚醒するにつれて人影を捉えていく。
「ん……、え……?」
「エッタ」
今度は相手に届く声ではっきりと名前を呼ぶ。森の湖を閉じ込めた双眸が自分に向けられてようやく、深く呼吸することができた気がした。
そんな彼とは裏腹に、少女は闖入者の存在に布団を蹴飛ばして飛び上がった。驚愕と怯えで顔を強ばらせてシノの反対側に移動する。
「ひっ!? いやっ、シ、シノッ……!!」
咄嗟に距離をとった彼女は目の前にいるのが誰か分からないまま幼馴染の名前を呼んだ。そこにいるのが彼自身なのだと気付くほどの余裕はない。
床に転がり落ちた少女を冷静に眺めながら、今度はゆっくりと、その名を噛み締めるように呼ぶ。
「アリエッタ」
這いながらも更に離れようとしていた彼女がぴたりと動きを止める。幽霊を見るかのような視線が、大いなる厄災に照らされた輪郭をこわごわとなぞっていく。それはよく見知った幼馴染の姿だった。
「なっ……! えっ……は? シノ……?」
「エッタ、オレだ」
「は……は? はぁっ?! っ馬鹿馬鹿……! 何してるんですか、ばかぁ……!」
正体を知った途端、全身から力が抜けてその場にへたりこむ。遅れてやってきた羞恥心にまかせて子どものような暴言を吐いても、シノはおかしそうに嬉しそうに笑っていた。
アリエッタは床へ落ちた布団を胸に引き寄せじとりと睨みつける。未だ整うことのない心臓はばくばくと皮膚の下で脈打っている。
「夜間に女性の部屋に入るのは止めて下さい。マナー違反でしょう!」
「お前くらいにしかしない」
「急にされても困るんです! もぉー、一体何があったんですか?」
小言を言いながらもシノを追い出そうとはしない。むしろ話を聴く態勢になって続きを促す。そんな人の良さに呆れることもあるが、好ましいと思うのも本当だ。日頃は弟のように扱われることに抵抗するが、今こうやって甘やかされることは悪くない。
「眠れない」
「はぁ……お腹が空きましたか?」
「空いてない。寝苦しかっただけだ」
「暑くなってきましたか? うーん、明日寝具を変えましょうか」
「どうせ全部朝になったら下に落ちてるから同じだ」
「そんなのだから風邪ひくんですよ……」
そんな取るに足らないような会話を繋げているうちに、何処からともなく聞こえていた声は無くなっていた。もぬけの殻になったベッドを挟み、昼間しているものと変わらない会話は続く。
どうしてこんな会話を続けているのかと不思議に思ったところで、まだ寝足りないアリエッタが大きな欠伸を零した。突然眠りを妨げられたのだから当然だ。それでも彼女はシノに帰れとは言わない。シノが気を遣って帰るとも思っていない。
「寝るか」
「そうしましょう。……部屋で寝づらいならここで寝ていきますか」
アリエッタが何でもないふうに誘うので、シノも「お前が言うなら仕方ない」と何てことないようにそれに答えた。昔はヒースクリフも一緒に三人で一つのベッドで寝たこともある。ヒースクリフの大きなベッドで子どもが三人転がった頃とはだいぶ状況は違うが、まるで普段からそうしているかの自然さで二人はベッドに並んで横になった。
「反省しましたか? アポなしは私でも困りますからね?」
「がんばる」
「頑張るじゃないですよ……。ちゃんとお行儀よくするんですよ?」
「……うん」
「今度は朝までちゃんと寝たいんですから、蹴飛ばさないでね」
「…………」
「……シノ? え……寝るの早くないですか……?」
本当は寝ていない。ただこの柔らかな声を聞きながら眠れるならばそうしたいと思ったから寝たふりをした。アリエッタは戸惑いながらも声を掛けていたが、返事がないことに諦めたのといよいよ睡魔に襲われてすぐに口を閉じてしまった。
隣の小さな寝息に耳をそばだてて、触れた肩の熱さを感じる。すぐ傍の存在に安心して身体の力が抜けていくのが分かった。
閉じた瞼の裏、シノが建てた城の庭園の中で少女が佇んでいる。懐かしい森のような緑に囲まれて、花の色をした髪の毛を広げて振り返った彼女は、シノの姿を見つけると咲いた花弁のように微笑んだ。