「あなたの話を聞かせて」

なんでもない夜だった。少なくともアリエッタにとっては。
彼女はそのとき、五カ国和平会議に併催される昼食会の準備をしていた。国に合わせた食事や調度品の手配をすることは難しくも楽しく、今後の自分の糧となる非常に良い勉強だった。
それなのにたった当日の記憶だけが無い。いや、全く無いわけではない。ヒースクリフ達が露店を見てから城に向かうと聞いて羨ましく思った記憶もあるし、外の様子を見に行ったカナリアとルチルを見送ったことも覚えている。しかし、それ以上のことは思い出せない。
空白なのかすら分からないくらい、酷い喪失感もない。ただ少し不思議だと思うだけ。きっとそんな不思議な夜には自分には分からない何かが起きたのだろう。なぜならばここにはたくさんの魔法使いがいる。人間の自分には分からない時間と世界が彼らにはある、それだけだと己に言い聞かせる。彼らが危険な目に遭っていないのであれば自分がとやかく言う必要もないだろう。このときは暢気にそう思っていた。

「みのたうろす?」
魔法舎に戻ってきてから異変に気付くのに時間は掛からなかった。シノとヒースクリフが揃って安静にしろと言わているのだから当然だ。これは理由を聞かなければと息巻いたアリエッタに、不思議な夜に起こったことを教えてくれたのは彼らの師匠であるファウストだった。緘口令を敷いている訳でもないのだからと、なんてことのないように告げられたその内容は壮絶で、同時にその瞳がアリエッタの方をを心配していることも分かってしまった。きっと、それほどのことがあったのだろう。
立ち話をしていたところでその本人と出くわしたのは幸運だった。
「シノ!なぜ外に出ているんですか、フィガロさんに安静にするように言われたんでしょう?!」
「傷は塞がってる。全然平気だ」
いくら安静にしていろと言われてもそれを聞くような相手ではない。偶然ここで会わなければ鍛錬でも始めていたかもしれない。
そのまま二人がかりで部屋に連行してベッドに放り込む。どっと疲れた。
「嘘でしょう……。もう……ほんと、何やってるんですか……」
「僕が傍にいてやれずにすまなかった」
「いえ、ファウスト様の責任ではありません……本当に」
本心からの言葉だ。ヒースクリフもシノも常時見守りがいるような幼子ではない。ちゃんと自分の頭で考えて判断して動くことはできる。彼らが後悔していないというのであれば、その師匠であるファウストに責がある筈もない。
ベッドに押し込まれたシノは不満そうだ。シノ、と呼びかけてもじとりと此方を睨みつけてくる。そんな目で見られる筋合いはないのだが。
「ヒースも怪我をしたんでしょう」
もう一人の名前を出すとシノは喉の奥にぐっと答えを詰まらせる。苦い実を奥歯ですり潰したときのように顔を顰めてから「ヒースも大怪我をした」とたどたどしく答えた。驚きはない。どちらかといえばアリエッタの中は無茶してばかりの彼らに対する憤りでいっぱいだ。
──年頃だから?男の子だから?魔法使いだからなの?もう!
シノはじっと彼女の返事を待っている。責められることも致し方なし、むしろ咎を犯した罪人のつもりなのか、裁きを待っているようにも見えた。
「怒らないのか」
「……怒ってますよ。ふ・た・り・に」
シノが言い淀んだ理由も怒られることを恐れた理由も知っている。けれど、自分が怒る立場にないことを痛感しているアリエッタには何も言えない。ただこうして地団太を踏むことしか出来ない。はぁああ、と腹の底のわだかまりをすべて吐き出すように深く長い溜息が出る。
「人の話を聞かないでしょう、二人とも。シノはしょっちゅうだし、坊っちゃんも意外と我を通してくるんですから」
「アイツも勇気あるよな。さすがヒースだ」
「得意げになるところじゃないですよ、心配かけておきながら」
少女の愚痴など彼にとってはそよ風に過ぎない。普段の調子を取り戻したシノが唇を上げた。彼女があの夜の真実を知ったのをいいことに口を開く。
「そんなことより聞けよ。オレがどんな活躍をしたのかを。じゃないとまた抜け出すからな」
そう踏ん反り返ってアリエッタの言葉を待つ幼馴染には溜息しか出ない。彼女の代わりという訳でもないがファウストが深々と息を吐いた。
「なんで上からなんだ……」
「ほんとですよ、もぉ……」
まあ、けれど。彼が受けたであろう傷も痛みも想像でしかない。しかし、だからこそ、聞かせてくれると言うのならばねだってみよう。お茶とお菓子の準備をして、普段はすぐにどこかへ行ってしまう彼を引き止めて。
「シノ、貴方の話を聞かせてくれますか。二人の英雄譚なんでしょう?」