第八話

「ごめんなさい、もう大丈夫です」
そう言って彼女の身体が離れていく。触れたところの熱が冷めていくのを名残惜しく思い、乱れた服を整える振りをして残った温さを追う。少し湿っているのは何故など考えるまでもない。
こちらを見上げる顔は目が真っ赤になり、その周りと頬も赤く腫れ上がっていて痛々しいことだ。こんな顔をさせたまま本丸に戻るのは憚られる。
「目が腫れてしまってはいけないからね、どこかで休んで冷やそうか。何か飲み物か……それか甘いものでも食べて……あっ」
そこまで言ってハッと気付く。俺と一緒にいて気を張ってしまうのならば休む意味が無いのではないか。
審神者を泣かせたのだと仲間内に知られれば自分の中にある山姥切長義としての矜持が崩れていく気がする。だがそんな場合でもない。もともとの今日の近侍を呼べばいい。
「あっ、あの、別に俺と一緒じゃなくてもいいんだよ。 なんなら長谷部くんを呼ぼうか?」
しかし、良かれと思って付け加えた内容は彼女の機嫌を損ねるには充分だった。
「……長谷部さんにはワガママ言って代わってもらったんだし、長義さんが行かないならもう帰る」
処世術として身につけたであろう愛想や遠慮などを削ぎ落とし、残ったのは普段より幼く見えるぶすっとした顔だけ。怒っていることを隠しもしない彼女の、心のかたちが少しだけ見えた気がした。その心はぎゅうと締め付けられて本来より縮こまったかたちをしている、けれど綺麗に光る、俺がずっと守りたかったもの。
このまま言われた通りに帰ってしまえば、二度とそれを見ることは出来ないだろう。ここで手を伸ばさなければ、俺達の間にある透明な壁は更に厚みを増して距離を広げていくだけだ。
「待って。君に教えたいお店があるから、行こう?」
小さくて柔らかい輪郭に触れ、涙の筋を指で拭う。
不利な戦況で進軍を提案するときのように、否と言われても仕方ないと頭の片隅で思いながら彼女に判断を委ねる。けれど、彼女の目は涙とは違う輝きを見せて、こちらを見上げたかと思うと一も二もなく頷いた。

大々的に有名な訳ではないが知る人ぞ知る喫茶店がある。その店は可愛らしく飾り付けられた洋菓子が評判で、時間によっては長時間並ぶこともあるのだが、今はお八つ時から外れていたのが幸いして待たずに座ることが出来た。
席に着くなり多種類のメニューに目を奪われた彼女はあれがいい、これも気になると悩みに悩んだ結果、期間限定の季節のフルーツパフェを選ぶ。
注文したパフェと俺の珈琲が届くまでの間もメニューを見て目を輝かせる様子を見て、連れてきて正解だったと安堵する。
暫く経って運ばれてきた注文の品を前に興奮が隠せないようだ。
「かわいい〜! それにキレイです! 長義さん、食べていいですか?」
「俺に許可を取る必要ないよ。頂こうか」
「やった、いただきます! ……ん、うん、おいしいー……!」
きらきらした笑顔で頬張る姿を眺めながら珈琲を口に運ぶ。いつも飲んでいるような黒い飲み物がどの店のものより美味しく感じた。
プレゼントの包装を開けていくようにわくわくとパフェを口に運んでいる。頬に泣いた跡は残っているが、機嫌は少しでも浮上しただろうか。この子が好むだろうと目をつけていた店だったので喜んでもらえたならば本当に良かった。
アイス、生クリーム、フルーツ……と堪能している彼女がスプーンを動かす手を止め、真正面に座る俺に視線を向ける。
「長義さん、こんなお店知ってるんですね。甘いものが好きなんですか?」
「いや、特に好きな訳では無いよ。君が好きなのを知っていたから、教えてあげたかったんだ」
「へ? ……私と来るために?」
声のトーンが少しだけ低くなったのにギクリとする。君と来るために色々な店を調べていたんだよ、なんて聞いたらびっくりする筈だ。それだけならまだいいが、不気味がられるかもしれない。
「あっ、いや、あの、俺とじゃなくていいんだ。君が美味しいものを食べられるなら、それで。君だって、他の刀の方が気安いだろうし」
「長義さんが教えてくれるなら長義さんと一緒に来たいですよ。それじゃダメなんですか?」
逃げ道を敷こうとした俺をピシャリと遮る目は真っ直ぐとこちらを見据え、全く笑っていなかった。「そんなことないよ」と言ってくれ、そう俺に懇願しているのが伝わってくるから頭を抱えたくなる。ああ、先程の自分の発言を無かったことにしたい。己の迂闊さに自己嫌悪する。
彼女の言うことは尤もで、あやふやに躱すためには不自然な理由を付けなければいけない。けれどここで頷けば俺が今まで引いてきた線を越えることになるのだ。躱すのではなくぶつかるしかない。
「俺は本丸に来て日も浅い。初期刀でも長くいる訳でもない刀を特別扱いするのはどうかと思うんだ」
突きつけるなら今ここで。どれだけ心が嫌な音を立てて軋み、ヒビが入り、その隙間から血を流すことになっても。
「君が俺を選ぶのは、昔政府で俺しか居なかったからだよ。ここに来てから、刀剣男士としての俺は君を喜ばせるようなことは何一つできていないだろう?」
それどころか偽物との関係で周囲に気を遣わせている。この本丸の刀剣男士は無闇矢鱈に相手を押さえつけるような真似はせず、俺と写しの問題がどう動くのかをただ見守っていた。その理由が加州の言うように「家族の仲違いを見せたくない」と言うだけであればいい。もしもそこに、俺が過去に彼女と知り合いであったからなんて理由であれば、ぶつける先のない怒りに襲われるだろう。
「なにも……?」
俺の発言に首を捻りながらも、言葉の意味を咀嚼し理解するまで言い返すことはしない。その間にパフェのアイスを口元へ運ぶのを見て、俺もカップに口を付ける。口の中に広がるアイスの甘さにか、ほわりと唇が微笑を描く。その表情はとても穏やかだった。
「また会えただけでも嬉しかったよ。ずっと私の傍にいて、優しくしてくれたでしょ?」
「それは……政府にいたときの俺がしたことだよ」
「あの頃のお兄ちゃんと長義さんは違うの? 私は、違わないと思う。あの頃から長義さんは変わらないよ」
そうはっきりと告げる彼女は穏やかで記憶より何倍も大人びた顔をしていた。あの夜に見たぎこちない笑顔ではない、離れていた年数を感じさせ、それでも確かにあの頃の面影を残している微笑み。
(そうだ、俺は……)
「長義さんは変わった? 長義さんがもう私にお兄ちゃんって思われるのが嫌なら、悲しいけど仕方ないかなって思うから、私は──」
「なんで仕方ないって思うんだ……!!」
思わず出てしまった大きな声に自分自身で驚く。彼女の方も驚いて固まっており、慌てて店内を見渡すと何人かがこちらの様子を覗いている。罰が悪くなり視線か泳ぐ。
「ご、ごめん。えっ、と……どうしてそんなことを思うのかな? 俺が、そんな、君のことを嫌なんて……」
俺の気持ちを勝手に決められた憤りと、況してやそれが否定的に捉えられていたことに対する寂しさ。何故。そんなふうに思われないように、やってきたはずなのに。目眩がした。
……だって、と。口を開くのに少し躊躇った様子を見せる彼女から、意を決したように伝えられたのは思いがけない言葉だった。
「私は甘えるだけで、長義さんの願いを叶えてあげられないから」
「俺の願いって……」
「長義さんはきっと、山姥切長義だけが山姥切だって認めてもらえる方がいいんですよね?」
でもそれは出来ない、と言外に彼女は伝えている。けれどそのことに怒りや失望など微塵も感じず、むしろこんな優しい子にそんなふうに言わせてしまったことへの後悔が襲う。
(分かっていたよ)
いくら俺に懐いていたとはいえ、今まで自分を支え続けた山姥切国広に対してそんな仕打ちが出来ないことは。もしもそんな振る舞いをするならば、それはもう俺が見守ってきたあの優しい子どもではない。
「そんなこと……いいんだよ」
この子にとっての山姥切が俺であると、胸を張って言えるようになるのは他の誰でもない俺次第である。それは誰かに与えられるものではない、俺自身の手で得るものだ。
「俺に願いがあったとしても、そんなことは願わない」
「本当? 我慢してません? 無理してるんじゃないかなぁ……」
それは本心だったが、彼女は納得していない様子で眉間に皺を寄せたまま俺の表情を探ろうと目を凝らしている。我慢や無理をしていないか、と聞くのはむしろそうだと疑っているからだ。だからこの問答を終わらせるには「どうして彼女がそう疑うのか」を考える必要があった。
……我慢も無理もしていない、けれどこうだったらいいなと思わないこともない。
「山姥切国広に、お前は主の何になりたいのかと聞かれたよ。俺は、君のお兄ちゃんでありたいし君という審神者の刀剣男士にもなりたい、君にとっての山姥切にもなりたいんだ」
あの時答えられなかった問いへの答えは自分でも驚くほど欲張りなものだった。そして、それを自覚しているからこそ言えなかった。
「欲張りで我儘だと思ったから言うのを躊躇っていたんだ。俺は……君の前ではずっと格好良い俺でいたい。君がそう、言ってくれたから」
あの頃、君は新しい場所に連れてこられて不安でいっぱいになっていた。けれどそれを口に出せずにぐっと堪えていて、そんな姿が痛々しくて放っておけなくて、名前を聞かれた時に「お兄ちゃん」と言ったのだ。今考えれば、刀である俺が兄という存在を知るわけがないのに、おかしな話だ。
喋りすぎた唇を湿らせるため温くなった珈琲を口に運ぶと、それを見た啓も溶けたアイスをスプーンですくって頬張る。彼女の視線が下の方をうろついているのは何か考えているときの癖だ。
「ごめんなさい、思い出せないです」
「それはそうだろうね。何も特別な日だった訳じゃない、本当に普段過ごしていた時に言ってくれた言葉だよ」
すまなそうに萎縮してしまうと可哀想なので、一切気にしていないことを伝えるため軽く手を振って笑う。
でも、と真剣な眼差しで彼女は言葉を続けた。
「……ずっと、私の言葉を覚えててくれてありがとうございます」
「…………!」
その言葉に胸がきゅうと締め付けられた。痛みはない。動かすのを忘れていた心が柔らかく解され、何かが溶けだしたかのように。もしくは、乾いていたところに水を与えられたかのように。
「ずっと、昔も今も、私のかっこいいお兄ちゃんでいてくれて、ありがとう」
「俺、が……?」
この子の言葉と想いに応えてきた。兄弟とは何かを知らずとも「お兄ちゃん」であろうとした、それは付喪神──刀剣男士としての本能だったのだろうか。だとすれば、俺はあのときから君の刀剣男士だったのだ。君が俺を呼んでくれたあの日から。
はは、と気の抜けた笑いが零れた。
(俺がかっこいいお兄ちゃん、か)
「俺を、そんなふうにいさせてくれたのは君のおかげだよ」

もともと時間をかけるつもりでは無い買い出しだったが、色々なことが重なった結果かなり帰るのか遅くなってしまった。早いうちにそのことを通信で長谷部に伝えたがさして驚かれることもなく、「分かった。気をつけて帰ってこい」とだけ言われるのみだった。もしかしたら予めこうなることを想定していたのかもしれない。有り難さ以上にその洞察力がおそろしいと思う。
「長義さん、一番星ですよ!」
冬を目前に控えた秋の夕暮れは日が落ちるのが早い。ところどころ店仕舞いを終えたり灯りを出す店もある、そんな通りをふたりで並んで帰る。
声色に明るさを取り戻し頬に涙の跡こそないが目尻はまだ少しだけ腫れている。そんな彼女が本丸に戻れば何かあったと誰もが気付くだろうが、そもそも予定よりかなり帰還が遅れている時点で察せられているに違いない。
一番星、という彼女の言葉に空を見上げる。紫紺と橙が他の色も作りながら綺麗な階調を作り出す空、そこに真っ先にひとつの輝く星があった。
「本当だ、一番乗りだね」
「一番乗り〜。 長義さん、あの星はなんていうんですか?」
質問に対しては肩を竦めて首を傾げる仕草で返す。あいにく俺は天体に詳しくないので、星座の一部かも分からないひとつの星の名称を答えてあげられなかった。
「さあ、なんだろうね。でも、名前はあるんだよ。星には一つ一つ名前がついてる。何故だか分かるかな?」
俺の問いかけに「名前?」と聞き返したが質問の意味は理解したようだ。少し考えて答えが返ってくる。
「ん? えーっと……名前があった方が見つけやすいから?」
「うん、さすがだね。この広い真っ暗な夜空の中で迷子にならないように、みんな自分の名前があるんだ。名前があれば、誰かがきっと呼んでくれるから」
「なるほど……! いいですね、それならみんな寂しくなくなります」
「うん」
行き先を決められず暗闇の中で立ち竦むときや、口さがない人々の話に耳を塞ぎたくなるとき、それが道標になる。貴方が呼んでくれるからひとりではないと、それはどんなに心強いことだろうか。
「俺も、君の呼んでくれる声があったから迷わず此処に来れたよ。山姥切さんも長義さんもお兄ちゃんも全部、君が俺を呼んでくれた名前だから」
どれも優劣付け難い大切な呼び名だ。山姥切としての認識を取り戻すのがこれからの話とはいえ、ただここにある俺も決してあやふやなものでは無い。
この子が俺を呼ぶかぎり、俺はたった一つの星になって輝こう。
一番星、と君が笑って指させるように。