第二話

前にも後ろにも進めなくなった状況をいつまでも続けているわけにもいかない。ファウストがぼうっと立ったままの二人の教え子に視線を向けると、それに気付いたヒースクリフはほっとした、シノはむっとした表情をみせた。なんで僕が……と言いたいのを堪え、まだまだ頼りない少年二人に声をかける。
「シノ、ヒース。先にフィガロのところへ行ってきなさい」
「なんで」
「ちゃんと医者に診てもらうんだ」
不遜な態度な崩さない問題児に語気を強めて再度言い聞かせる。“南のやさしいお医者さん”を名乗る彼が「ちゃんとした医者」なのかはともかく、素人判断で大丈夫だと済ませてしまうのは躊躇われる。そういうところが彼が真面目だといわれる所以だった。
彼女について、あえてファウストは何も言わずにネロに任せるつもりだった。ネロもそれに勘づいてか、アリエッタと元凶となってしまった二人のことを刺激するまいと柔らかい声音を作って言葉を選ぶ。
「とりあえず目元を冷やそうぜ。どっちも落ち着いてから、ゆっくり話せばいい」
「はい……」
頷きながらも、アリエッタはヒースクリフ達の方を見向きもしなかった。赤く腫れた顔を隠すように俯いたままネロに先導されて出ていこうとする。誰も、見送ることしかできなかった。
二人の姿が完全に見えなくなってから、ヒースクリフは自分の腕を掴んでいるシノの手に気づく。緩く振り払うとシノもすんなりと離れた。
「シノ、行こう」
ヒースクリフが浮かべた笑みはどこか硬くぎこちない。パーティで相手の機嫌を損なわないよう繕うための笑顔は、少なくとも幼馴染で従者に対する表情ではなかった。
「ファウスト。あんた、エッタに余計なことを言うだろう」
彼の呼び掛けを無視したシノはファウストに詰め寄ろうとして、近付いたぶんだけ距離を取られる。これ見よがしに大きな溜息もつかれてしまった。
「……余計なことかどうかを決めるのはお前じゃない」
彼の言葉は短くもまっとうで、説得力があった。シノが何か言ったところで子どもが駄々を捏ねているようにしか見えないだろう。たしかに無力な子どもだったと、村の教会で賢者とヒースクリフを危険に晒してしまったときの、惨めな気持ちを思い出す。
シノ、ともう一度ヒースクリフが呼ぶ。今度は素直に頷き、手を取られる前に自分からその腕をひいた。
「早く行くぞ」
「分かってるよ、お前が言うなってば」
僅かに普段の調子を取り戻したヒースクリフの声色も少しだけ軽くなる。ファウストのまだ疑わしげな視線を振り払うように背を向けて足を動かせば、それ以上背中から声が掛かることはなかった。
ヒースクリフは急ぎ足になるシノに文句も言わずただ腕を引かれてついてくる。
彼に対しても、彼女にも言えないことがある。仕方ないとは思わない。シノだっていつかは言わなければいけないとは思っている。が、それが今此処ではないだけの話だ。どうすれば最善の方法を取れるのか、今のシノには分からない。それでも、いつもそれを一緒に考えてくれる彼らに今回だけは話すわけにはいかなかった。

アリエッタを任されたネロはその足でキッチンへ向かう。
祝祭を終えたばかりですぐにでもベッドで横になりたいのが本音だが、拗れた彼らを放っておくこともできない。
今ならここにいるだろうと読んでいた相手は予想通り、二人分の足音に振り返って驚きの声を上げた。
「……あら、ネロさ──まぁ! どうしたんですか!?」
ネロが留守の間、魔法舎の食事を任されていたカナリアは今も食事の準備をしているところだった。アリエッタの手を引くネロの姿に何事かと駆け寄り、少女の目元が赤く腫れていることに気付くと目を吊り上げる。
「何かひどいことを言われたの? 私が言ってきてあげましょうか?」
ぐい、と勢いよく詰められる距離に傍のネロが思わず手を離した。カナリアは魔法舎の中で唯一の同僚である彼女のことをとても可愛がっている。顔色をサッと変えて詰め寄るのも当然だった。
「……すみません、大丈夫です」
「そ、う……」
大丈夫には見えない顔でそう答えるアリエッタだが、カナリアはそれ以上問い詰めることはせず喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。
ネロはそんなやりとりを耳に入れながらハンカチを冷水で濡らす。それを差し出すと礼とともに受け取られた。ひとまずの──彼らから距離を置かせるのも一つだが──目的を果たして落ち着いたところで、漸くキッチンの中に漂う甘い匂いに気付く。テーブルには所狭しとパイやケーキ、チュロスや焼き菓子が並んでいた。
「これは……?」
「えぇ! 今日は東と北の魔法使いの皆様が帰ってくると聞いたので、甘いものは特別に沢山作ったんです。アリエッタちゃんも一緒に、ねぇ?」
その中にはレモンパイもある。そこから三人の頭に思い浮かべられる一人の魔法使いこそが、今回の件のきっかけだった。
アリエッタが短く息を吐く。目元をハンカチで抑えたまま、ぽそりと呟いた。
「シノと、喧嘩を、したんです」
「そっか……。なるほど、それで悲しかったのね」
なぜ、とは聞かれなかった。カナリアにそう促されて、頷く。悲しかったのかと聞かれたらたしかに悲しかった。苛立ちや不信感もあったが、何よりも彼から隠し事をされて関係ないと突き放されたことが悲しかった。何があったのかが分からないことには、どうしたら良いのかはアリエッタに分からなかった。
「カナリアさん……、シノとヒースにレモンパイを持って行ってあげてくれませんか? 私が行くと、また喧嘩してしまいそうだし……」
「折角アリエッタちゃんが作ったものなのに? ……分かったわ、今回は私が持っていくけど、喧嘩したままは駄目よ」
彼女は聞き分けの良い大人だった。諭すことも軽くに留め、手際良く準備をしていく。さくりと軽い音を立てて切り分けられた二切れのパイを綺麗に皿へ乗せてフォークを添えるれば、残ったのは二人分が失われたレモンパイだ。
「そういうところがあるわよね、男の人って。勇敢なのはいいけど、心配する身にもなってほしいわ」
「はは……」
溜息とともに誰に言うでもなく吐き出された独り言に、その“男の人”であるネロは苦く笑うしかできない。そして同意を求めている訳でもなかったのだろう、返事を待たずにカナリアは皿を持ってキッチンから出て行ってしまった。
そのとき、バターと柑橘の香りがふわりと風に乗って届く。懐かしくて優しくて、けれど今のアリエッタにとっては寂しい香りがした。