第三話

子どもだった頃、シノが大怪我をしたときのことを思い出す。
シャーウッドの森で魔物からヒースクリフとアリエッタを守るために、まだ幼い彼は生死を彷徨うほどの怪我を負った。
その経緯など、今思い返せば本当に馬鹿なことをしたものだ。シャーウッドの森には伝承があり、はぐれた相手を見つけるとその絆は生涯千切れることはないというそれは、幼いアリエッタにはとても魅力的に聞こえた。それでいて今より浅慮で無知な子どもだったから、すぐさま試してみようと思ったのだ。
せめて思いついたときにシノがいれば、森の怖さを知っている彼がいれば実行されることは無かっただろう。けれど中途半端に知恵を持っていた少女は「探してもらうのは森に詳しいシノが良いはずだ」と考えて彼に事情を話すことをしなかった。
その結果、彼女に誘われて一緒に森に入ったヒースクリフも巻き込む形で大事件を起こすことになる。
二人を探しにきたシノと大人達のおかげでヒースクリフは無傷で、アリエッタも擦り傷程度で済んだのだが、真っ先に飛んできた彼らの幼馴染はその小さな身体を血と傷まみれにして意識を失った。それから、駆けつけた城の大人達に助けられて治療を施されたが、シノは丸一日経っても目を覚まさなかった。そんな彼から離れたくなくて、アリエッタは可能な限りベッドの傍で過ごした。勉強も食事も、眠るときも今日だけはと駄々をこね、隣に布団を敷いて眠らせてもらった。いつ目覚めるか分からない彼を一人ぼっちにさせたくなかった。
二日目の午後に漸くシノが起きたとき、部屋にはアリエッタしか居なかった。そのとき、彼女はシノを一人にする周りの大人やヒースクリフに対して独り善がりな憤りを感じていた。
「ヒース、は……?」
ベッドの上で首を僅かに動かして真紅の瞳がアリエッタを捉える。彼らしくない頼りなくか細い声。頬の傷が痛むのか、開いた口は小さく震えていた。
「……ヒースは、授業の時間だから、ヒースの部屋にいます」
乾いていた唇を湿らせて彼の問いに答える。どうか傷付けることのないように、と切望しながら。けれどシノはアリエッタの心配など知ったことではない言わんばかりに小さく首を振る。
「そんなの、聞いてない。ヒースに怪我は……?」
「ありません! シノが、守ってくれたから……」
「そう、か」
少しでもその顔に寂しさが浮かんでいれば、いっそ拗ねてくれれば良かった。けれど彼はそんなことをしなかった。穏やかで、淡々とした声は掛けられた白い布団くらい温度が感じられない。
(さびしくない?)
聞きたくなるのを既のところで堪える。きっと彼は頷くだろう。それどころか質問の意図も伝わらないかもしれない。だって、身体が弱っているとき、今まで誰が彼の傍にいてくれただろうか。手に入れたことがないものを惜しむことはできない。
「それより……もう、お前らだけで、シャーウッドの森に、行ったりするなよ。危険だろ」
息を吐くくらい当然に人の心配をするくせ、人に心配されることが分からない。
「行かないです……行かない、絶対。シノがいないときは行きません」
彼が辛い目に遭ったときは傍にいようと思った。こんな気持ち、飢えた子どもにとってパンより価値がないものだろうけれど。

キッチンに残されたネロとアリエッタを賑やかな匂いが包む。東と北の国の魔法使い達のためを思って作られた豪華なご馳走は、置いていかれた玩具のように寂しく広がっていた。これだけの準備を魔法も使わずに、普段の食事の支度をしながら行ったのかと思うと、同じく料理をする者として頭が下がる。彼女達の努力は思いやりと言い換えても間違っていない。
「ありがとな。二人で大変だっただろ」
ネロからの労いの言葉にアリエッタの笑顔が戻った。少女がもともと持つ愛嬌を滲ませて、瞼と頬を赤く腫らしたままはにかんでみせた。
「そんなことありません。帰ってきてくれるのが嬉しくて、私は苦になりませんでした」
(分かるなぁ)
先程のカナリアの言葉には苦笑で返したものの、ネロはむしろ彼女達と同じハラハラして待つ立場に共感する。異性であろうとなかろうと、魔法使い同士であろうなかろうとそれは変わらない。ただ待つことしか出来ず、無事を祈って、せめて自分の作る何かが相手のためになればいいと思いながら出来る限りのことをする。
それと同時に、愛情を込めればそれが必ずしも相手に正しく伝わる訳ではないことも知っている。
(仕方ないよな。所詮、他人なんだから)
本当に伝えたかった気持ちとは違う意味で相手に伝わるのも、長い間一緒にいれば特にそういうことはある。彼も経験したことがあり、そういったときは言葉を重ねることなく飲み込んでいた。だが、上手く飲み込んだ筈がいつまでも消えなくて、結局──。
「帰ってきたときに自分のためのメシが用意されてるのは誰だって嬉しいもんだよ」
ネロにとっては少しすわりが悪い感覚を与えるのだが、これだけの料理を前にして他の面子は素直に礼を言うだろう。彼は、自分のためのものが用意されているというのは、どうしても気恥ずかしさと少しの申し訳なさを覚える。
どちらかというと誰かに手を焼いている方がほっとできる、ネロは自分の性質を分かっている。
「落ち着いてから話せばいいんじゃねぇか。必要なら、俺もファウストもいるし」
いつまでも目を背けている訳にいかないので、少し緊張しながらも話題を戻す。アリエッタも再び涙を浮かべるようなことはない。自分自身でも何かを逡巡している、言葉を迷っているようだった。
「シノが、よく分からないんです」
「それなぁ」
口に出た言葉も自信なさげにふらついていた。その言い方が果たしてあっているのか、否定されるのを怯えているように見えたから、ネロはわざと軽い口調で返して続きを促す。
彼の表情を窺いながら、先程よりは芯の入った声が話を続けた。
「シノはときどき、そういうところがあるんです。私にもヒースにも。お前達は知らなくていいんだって、勝手に線を引くんです。心配してるっていっても、そんなの関係なしに」
シノがそうやって突っぱねる光景が容易に目に浮かぶ。
「ネロさん、……私の、この、心配する気持ちは無駄なんでしょうか?」
「…………」
いくら心配しても相手に伝わらなくて、突き返される。飲み込んだと思ってもきっと完全に消化されることは無い。それを何度繰り返せるだろうか。
「……無駄じゃねぇよ、多分」
すぐには答えられなかった。しかし、過去の自分達の再現を彼女達がする訳でもない。ネロは無難だと思われる答えを口にした。少し居心地が悪くなって視線が泳いだが、自分のことで精一杯な彼女は気付かないだろう。
そのとき、小さな風が起こった。窓から吹き込んたかと思ったがそうではない。
「ねぇ、それ食べていいの」
いつの間にか現れた北の魔法使い──オーエンが、彼の好物であるケーキを指差して二人に問いかけた。