「オーエンさん!」
彼はいつも神出鬼没だった。まさしく魔法のように現れては消えてゆく。人を翻弄して困惑させて、そんな顔を見るのが楽しいのだと言わんばかりに彼は笑う。アリエッタは突然話しかけられたことに驚きつつ、それ、と彼が指さしているのが洋菓子だと分かるとこくこくと頷いた。彼が甘いお菓子が好きなことはなんとなく理解している。ヒースは北の魔法使いは関わりたくないと言っていたが、アリエッタにはただ言い方がひねくれた子どものように見える。
「差し入れを作ってたんですよ。皆さんか何がお好きかはお聞きできなかったのですが……」
「ふぅん……ふふ。なら、甘いもの全部食べるからお皿に頂戴」
故に、子どもがするように強請られても悪い気にはならなかった。はい、わかりました。恭しく振る舞ったつもりで、けれど少しお姉さんぶって返事をする。
大きな皿に自分のケーキが増えていくのを眺めていたオーエンは、ねえねえ、と自分に注意を向けさせた。アリエッタが手を止めて彼の方を見ると、色違いの双眸を細め唇で弧を描いて微笑みの形を作る。
「お礼に良いことを教えてあげようか」
「いいこと、ですか?」
「シノのことだよ」
オーエンから出た名前に笑みを浮かべたまま顔が固まった。
「シノが隠してる、君が知りたがっていること。本当に君のことが好きなら隠し事なんかしない筈でしょう?」
アリエッタの動きがぎこちなくなったのをいいことに、物語の語り部がごとく謳うように彼は口を開く。水を得た魚のように、恰好の玩具を見つけた子どものように、その目はきらきらと輝いていた。
「それはアンタ個人の意見だろ」
すかさずネロが割り込んだ。視線を移せば、オーエンを睨みつける彼の小麦色の眼差しには普段より剣呑な光が宿っている。
「相手が隠したがってることまで暴いても、得られるのは自己満足だけじゃねぇか」
その言いようは少女を庇ったというより身に覚えのある話をしているようにも聞こえた。どちら側を自分に置き換えたかまでは分からないが、人の秘密を暴くことへの嫌悪感が滲んでいる。
彼の非難めいた視線もオーエンは笑い飛ばす。
「それは、君が暴かれたら困るからでしょう、ネロ。あの子が隠してる方がいいだなんて、君が決めつけるのは無責任じゃない? 」
「決めつけてるのはどっちなんだよ」
「ネロさん」
アリエッタはネロを止めた。心配そうに向けられた視線にはっきりと答える。
「大丈夫です。私はそれを分かって聞くつもりです」
彼が心配してくれているのは分かる。この行為が褒められるようなものではないことも。それでも、この誘惑に乗せられてもいい。乗せてほしいと思った。
(それに、攻撃的ではないのよね)
アリエッタは育った環境と出自から周囲の悪意に人一倍敏感だという自信がある。彼の誘惑が純粋に害意から来るものとは思えず、むしろこちらの出方を楽しみに待っているあたりやはり幼子のようだと思えた。まぁ、十数年しか生きていない小娘を騙すことなど彼にとっては赤子の手をひねるようなものかもしれないが。彼女にしてみれば、たとえ彼がどんな気持ちで喋っていても知りたいことが分かれば充分なのだ。
「勿論、シノにも隠したい事情があると分かります。でも、私は二人のことを知っていたい。……私が怖いのはシノとヒースに嫌われることではありません。彼らが窮地に立たされたときに、私が何も知らないまま役に立てないことです」
「ふぅん。偽善者なんだね」
吐き出した心のうちは彼の期待通りではなかったのだろうか。途端に笑みが剥がれ、目の前の玩具では遊び飽きたと言わんばかりにつまらなさそうな顔で吐き捨てられた。
「知ってます」
そう揶揄されることも初めてではないから臆することなく頷く。オーエンは奇怪な生き物を見るような目つきだ。
「僕の好きなもの、甘いミルクでびしゃびしゃにしたスポンジみたいなやつ」
「ミルクでびしゃびしゃ? あ、消えた……」
その形容では全く見当がつかない。しかしそれだけ言うと彼の姿は煙のように消えてしまった。魔法のように──事実、正真正銘の魔法で。オーエンの好きなもの。甘い菓子だということ以外、何もヒントがない。
「トレスレチェスのことだよ。これでもかってくらい甘いケーキのことだ」
「とれす……?」
つい先程まで難しい顔をしていたネロはすっかり普段通り世話焼きな兄貴分の顔をしている。聞いたこともないケーキの名前に首を傾げるアリエッタに「作るんなら手伝うけど」と自ら助け舟が渡す、やはり心配になるくらい人の好いひとである。任務後で疲れている彼を気遣う気持ちと、ひとりで作り方の知らないケーキを作れるだろうかという不安が天秤の両端で揺れた。
結局は「ネロさんが良ければ……」なんてずるい返事しかできない。そんなことを言われて彼が断れるはずないのに。そうして彼は、じゃあするか、なんて軽く答えたかと思うとなんてことないかのように新しい調理の準備を始める。
「……ネロさん」
「ん?」
「先程は私のためを思って言ってくださったのに、すみませんでした」
「いや、いいよ。こっちこそ勝手に首突っ込んじまってごめんな。アンタを責めたいわけでもないんだ」
彼が相手の柔らかいところを守ってくれるひとなのはこれまでの付き合いでよく知っている。だから自分も彼が嫌がることやいたずらに傷つける真似などしてはいけない。彼がひっそり抱えるものを暴きたいなんて思わない。
「ネロさんが仰ることも尤もです。隠したいことを暴かれるのは、相手にとって歓迎したいことではないですよね。私が嫌われるとかじゃなくて、シノが傷付いてしまうかもしれないって」
それはシノやヒースクリフに対しても同じことのはずだ。より身近な存在だから傷つけて良いなんて思っているわけではない、のに。
「分かってるよ」
ネロが頷く。どんな気持ちでそう返したのだろう。ボウルの中の星屑糖と銀河麦がきらきらと光るのを眺めながら、ふと彼を傷つけていないか不安になった。
自分以外の他人の心など結局は推し量ることしかできない。
しかし、だからこそ、その内側を正しく推し量るために知りたいことが生まれるのも事実だ。どれくらい聞くのは許されるだろうか。たとえば、好物を知ることが出来たらそれを作って食べてもらうことができる。
知らないものを知ることが、ただ怖くて恥ずかしい、傷をつけるだけのものでなければいいと思う。
(知って、何か力になりたいと思うだけなのに)
第五話
