(なにか変だ)
布団の中が異常に熱く、寝苦しさに意識が覚醒する。状況を確認するため身体へ信号を送ってみるが、関節が鈍く痛むだけで思い通りに動かない。吐いた息の熱さと頬のひりひりとした痛みに、ああ熱なのかと冷静に判断できた。
ゆっくりと上体を起こして額、頬、首筋と順に手のひらを当ててみるが肝心の手のひらがとても熱い。窓の外を見ればまだ空には《大いなる厄災》が浮かんでいる。朝にはまだ遠い、夜中と呼ぶに相応しい時間帯である。
熱のせいか思い通りに動いてくれない思考回路を働かせ始める。《寒気があるうちは身体を温めることに専念して熱が上がりきってから、太い血管の通る部分を冷やす》そんな初歩的な知識は勿論アリエッタの頭の中に入っていたが、同時に彼女はせっかちで思い込みが激しい性格でもあった。故にこう考えたのだ。
(今から身体を温めながら脇だけ冷やせば朝には治ってるかも)
此処で他に誰かしらがいれば「何を馬鹿なことを」と諌めたかもしれない。が、彼女の部屋に他の誰かなどいる筈もない。寝巻きに上着を羽織っただけという心許ない格好で彼女は自室を出た。
「ネロさん……?」
てっきり誰もいないと思っていたキッチンは煌々と明かりがついており、そこには見慣れた姿があった。
「どうしたんだ、まだ夜中だぞ。……いや、大丈夫か?」
足音で来訪者に気付いた彼はアリエッタの姿を認めて首を傾げる。そして訝しむように眉を顰めた表情が次第に険しいものに変わっていく。彼は本当に人の顔色をよく見ている。
素直に体調が優れないことを伝え、冷やすものを取りに来たのだと言えばすぐさま「病人は座ってな」と椅子に座るように誘導される。冷蔵庫に向かう背中に慌てて立ち上がろうとするが、熱のせいで身体が言うことをきかない。一度座ってしまうと両足も両肩もずしりと重く、その部分だけ鉛になったかのようだった。
「すみません……こんな、顎で使うみたいな……」
「いーってば。無茶しすぎじゃないか、アンタ。働きっぱなしなんだよ」
「そうでしょうか……」
その通りだとは口にしなかったものの、自分でもそれが原因ではないかと薄々勘づいていた。実際、新しい賢者と魔法使いがやってきてからというものの、仕事の量が尋常ではなく増えた。
先の大戦の時も同じ数の魔法使いがいたし、今回も大丈夫──なんて、そんな考えは甘かった。あのときは全員が毎日集まっていた訳ではなかった。現在は21人の魔法使いと賢者がこの魔法舎で生活している。仕事が増えるのは必然なのだ。
「はいこれ、氷もどき。朝まではもつと思うぜ」
手渡された不思議な結晶はどう見ても氷だったが、手のひらに乗せてみてもひんやりと冷たさを伝えてくるだけで手のひらは乾いたまま。頬にあててみても同じくそれは溶けて水を作ることは無かった。
透明な結晶をランプに翳すと向こう側が少し歪んで見える。それが面白くてまじまじと眺める様子は、まるで年端もいかない子どもが物珍しい玩具を前にしたようで、稚く愛らしいもののようにネロには映った。たしかに、人間である少女は見た目通りの年齢しか過ごしていないのだと思えば、その感覚は間違いではない。
ネロはあることを思いついた。
「アリエッタ、手を出しな。頑張り屋さんにご褒美だ──《アドノディス・オムニス》」
差し出した少女の両手にふわりと舞い降りたのは、雪の結晶にしては大きい、絵本の中でみる星の形をした欠片。それがシュガーだと気付いたときには既に何個かの塊が手のひらに落とされていて、顔をあげれば心配性の料理人が笑っていた。
一つ摘んで口の中へ放り込んでみると、ただの砂糖とは思えない程に柑橘類や花の蜜など色々な味がした。綺麗な形は舌にのせた途端にほろりと崩れ、口内いっぱいに広がる甘さに頬がじんと痺れる。
「美味しい……!」
体調が悪いことも忘れるほど、身体中の神経がすべて口にいってしまったかと錯覚するくらい、それしか感じられなかった。
「そんな感激されるとはねぇ……珍しいもんじゃないだろ?」
何気なしに言ったであろう彼の問いに、アリエッタは口の端をつり上げる笑顔で返した。ネロはつまり、ヒースクリフとシノが幼馴染であればシュガーを見たり食べたりすることはよくあることだと言いたいのだ。しかし彼の予想は外れている。ヒースクリフは主人だしシノはこういった細やかな魔法は苦手だ。一度だけ、幼い頃に二人が練習の時に作ったものを食べさせてもらったことがあったが、その一度きりだった。
わざわざ彼の持つイメージを壊して訂正する必要はないと、アリエッタは口に物が入っているのを良いことに曖昧に笑って誤魔化す。彼のシュガーはいつか見たヒースクリフのものよりもほんの少し薄い青をしている。先程の氷もどきのような透明ではない、光にかざすとまるで青空越しに世界を見ているように映った。
残りのシュガーは帰ってから食べよう。一つずつ、大切に。棚から小瓶を拝借して中にしまう手つきは壊れ物を扱うように丁寧だった。
部屋に戻ろうと立ち上がる彼女を見てネロも動き出す。
「待ちな。送っていってやるから」
「いえ、そこまでは」
「男ばっかの魔法舎で夜に女ひとりは危ないぜ」
はぁ……、と間抜けな声が出る。彼の言う危なさは彼女にとって一切現実味を帯びない。此処にいる魔法使い達に変わり者が多いとは思えど、彼らが女性に対して無体を働くようには見えなかった。それでも頷いたのは、己の身の危険のためというよりは彼の厚意を無駄にしたくなかったというのが本音だった。
結局部屋まで送ってもらい何から何まで彼の世話になった。律儀にアリエッタが部屋に入るところまで見届けた彼は「お大事にな」と言うとさっさと行ってしまった。振り返らない背中は素っ気なく冷たいもののように見えるが、実際にそんな人物ではないことはもう知っている。お礼を言い損ねてしまったが、夜中に声をあげる訳にもいかないので元気になったらお礼をしようと思った。
渡された氷もどきはキッチンの時と変わらない冷たさを保っている。箪笥からガーゼ生地のハンカチを取り出してそれを包み、シュガーの入った小瓶はベッドサイドのテーブルに置いた。
時間が経ち温かさがすっかり失われてしまった冷たいベッドに潜り込めば、ひやりとしたシーツが熱を持った肌に心地好い。あと数時間眠って少しでも快方に向かいますように、そう祈りながら目を閉じた。
(いい夢を見てたような気がする)
それが夢だと気付いたのは今自分のいる場所が自室のベッドの中だと分かったからだ。素足をすり合わせて手を掴んで、ベッドの中でできる限り身体の調子を確認してみる。昨夜に目が覚めた時よりは熱も下がっている気がする。勿論快調とまではいかないが、ゆっくり休んでいれば治るくらいだろう。
目を開けてみる。窓から差し込む朝日のおかげで照明をつけていなくても部屋が明るい。普段起きる時間はとっくに過ぎていそうだ。
時計を探して視線を彷徨わせるとと、部屋の中にあきらかに異質な存在を見つける。それは飾り気のない少女の部屋の中で大きく存在感を放っていた。
「シノ? ……ヒース?」
まず目立つ黒服が、その隣に並ぶ主人の姿が目に入る。囁くほど小さな声は彼らに届いたらしい、二人の顔が同時にこちらを向く。誰かの魔法でも、熱に浮かされた自分が見た幻でもない、正真正銘本物の幼馴染達だった。
「エッタ、大丈夫か」
「鍵、かけてたはず……」
シノへの返事より彼らが部屋にいることへの疑問が口から出た。たしかに昨日は意識がぼんやりしていたかもしれないが、いくら何でも自室の鍵をかけずに寝るほど不用心ではない。シノは悪びれることなく堂々と答えた。
「魔法で開けた」
「シノ……」
遠慮が無さすぎる。(私だから良かったものの……)と内心ボヤいたところで(いや私でもダメでは?)と思い直す。常識的に考えれは、鍵を壊して相手の部屋に入る自体が良い筈がない。
「仕方ないだろ。体調が悪いって聞いてたのに返事も返ってこないから心配にもなる」
「ネロから聞いたんだ。熱がまだあるかもしれないって……。大丈夫? ……気持ち悪くはない?」
「ん……はい、大丈夫ですよ。夜より楽になりました」
ヒースクリフが心配を表情にあらわにしながら恐る恐る聞いてくるのに笑顔で答える。どうせ鍵を壊したのもシノの独断でヒースクリフは巻き込まれたのだろう。主人を前にして横になっていることもできず、身体を起こしてベットの端に腰掛けた。
このとき、すっかり温くなった氷もどきのことを忘れていた。姿勢を変えたことで身体にあてていた氷もどきが床へ転がり落ちる。
「あ、……わっ、ありがと」
「おい」
それを取ろうと屈もうとするが、思っていたより身体のバランスが崩れた。膝から崩れ落ちる前に前から回された腕に身体を支えられる。
いつの間に近くにいたのかシノの声が耳の真横で聞こえた。身体に回された腕は彼のもので、普段とは違う距離に驚く。今度は素直にお礼が出てきたが、対してシノは不満そうに眉を寄せた。
「大丈夫じゃないだろ。フラフラじゃないか」
「立ち眩んだだけです、ほんと、悪くはないですから」
そう弁解してみるも相手は全く納得はしていなさそうだ。それでも何も言ってこないのは優しさなのか、それ程の関心は無いのか、アリエッタには分からない。
ヒースクリフ画床に落ちた氷もどきを拾い上げる。
「これが保冷剤? ──《レプセヴァイヴルプ・スノス》」
彼の呪文を受けた氷もどきは青色の強い光を放って応える、また冷たさを取り戻した。
「ありがとうございます、ヒース」
「いくら大丈夫といっても無理はダメだよ。おなかは空いてない?」
「食欲はあんまり……。でも、ネロさんにシュガーを頂いたのでそれを食べるつもりです」
「そうなんだ……」
ヒースクリフはどこか浮かない表情だった。けれどそれを言及するほどの元気が今は無い。シノはまだ不服そうにむすりと唇と尖らせている。
「俺も上手に作れる」
「そんなに沢山食べられませんよ」
言い方がまるで子どもだ。まるでネロへの対抗意識みたいだ、と思わず笑ってしまいそうになるのをすんでのところで耐えた。シノの機嫌を損ねるのは目に見えている。
ヒースクリフとシノが人差し指で宙に円を描く仕草をして、空気が弾けた。
「は……?」
「ほら、やるよ」
「もし良ければ、だけど……」
差し出された二人の手のひらにはそれぞれ青と赤のシュガーがある。シノは得意げな顔をしているし、ヒースクリフまで此方にシュガーを差し出してきた。普段のように恐る恐るという仕草ではあったが引く気は無さそうだ。
「……ふふ、ありがとうございます」
出されたからには受け取らないわけにはいかない。それに彼らの優しさは純粋に嬉しくもあった。手のひらに転がる二色のシュガーは形も大きさもバラバラで、タイプの違う二人そのものだった。
「何かあれば俺かヒースを頼れ、分かってるのか」
「エッタは頑張りすぎるんだから、休まなきゃ駄目だよ」
それでも心配してくれる気持ちは二人とも同じなのだ。
「分かってますよ。ふたりとも心配性なんですから」
あの後、しっかり休むようにというヒースクリフの言葉に甘えて朝ご飯も食べずにベッドに戻った。そうして、身体が欲しただけ眠ったおかげもあってか、自分でも驚くほど寝起きの頭はすっきりしていた。関節の軋むような痛みもなくなり吐く息も熱がひいている。
(もう昼ごはん……も終わってる)
結局、朝から昼まで厨房のことをネロに任せきりにしてしまった。彼のことなので心配はしていないが、負担を掛けたことに代わりはない。謝罪とお世話になったことのお礼はしておかなければ。とりあえず着替えて食堂へ向かおうとしたとき、そのタイミング見計らったかのようにノックの音が響いた。
「おい、大丈夫か? スープを作って来たんだが……」
扉の向こうから聞こえてきたのはまさに今考えていたネロの声だった。その内容にも驚き、慌てて布団を跳ね除けて扉へ向かう。
「ネロさん!? え、っと……申し訳ありません、お待たせしました……!」
勢いよく扉を開ければネロがスープ皿を持って立っていた。アリエッタの勢いを予想していたのか、彼は予め扉から離れた場所にいた。息を荒げる彼女にネロは苦笑する。
「元気になったなぁ。そんな慌てなくて、も──」
そんな彼の言葉が不自然に止まる。どうしたのかと手元から顔へ視線を移すと、ネロの視線は自分から外されて泳いでいた。その視線を追い、はっと自分の格好に気付いて顔の熱が一気に上がる。
「っ……!しっ……失礼しました、こんな格好……!」
ついさっきまでベッドの中にいたため髪は乱れているし服も寝間着のまま。年頃の女性が異性に晒す格好ではない。シノ達が来たときは寝る前だったのと、まぁこの二人だし……という気持ちもあったが、これではシノのことをとやかく言えない。
「いや……悪ぃな。無理に起こしちまったか……?」
「い、いえ、あの、ちょうど起きたところでしたから、すみません……」
恥ずかしさでしどろもどろに答えながら、かといって服を取りに行こうともわざわざ来てくれた彼を放って中に入るのも躊躇われる。そうやって部屋の入り口でおろおろするアリエッタにネロが助け舟を差し出された。それは白く湯気の立つ温かそうなスープだ。
「ま、いっか。これ渡しに来ただけだからさ。……食欲があるなら食べな」
「あっありがとうございます!? わざわざこんなことまでして頂いて……」
彼に親身にしてもらうと有難い気持ちと同じくらい申し訳ない気持ちになる。そして彼はそんな彼女の内心すら汲み取ったかのように気さくに笑ってみせた。
「いーって。じゃあ、無理すんなよ」
ネロはアリエッタがスープを受け取ったのを確認すると、昨夜と同じくすぐに立ち去ろうとする。彼の態度はまるで何かのついでだったかのように、軽い用事を済ませたと言わんばかりに素っ気なく見える。けれど果たしてそれが彼の本質だろうか、とアリエッタは疑問を抱く。
「……ネロさん!」
彼の言う「これだけのこと」には沢山の気遣いが感じられる。病人のためのスープを用意して、それだけを渡すために時間を使う、そして渡そうとしたタイミングも考えられたに違いない。
それがたとえ彼にとって大したことではなくても、同じように些細なこととして受け取りたくはなかった。
「どうした? まだ何かあったか?」
足を止めた彼は真っ先にアリエッタのことを気に掛ける。それは彼の優しさだと思った。
「元気になったら、絶対にお礼させて下さいね!絶対!」
Fever
