めでたい日やき、と陸奥守は言った。
酒について、長義は政府にいた頃から付き合いで飲むことはあっても自分から進んで飲むことは無かった。それはこの本丸に来てからも変わらない。幸い、この本丸には相手に飲酒を強要する刀はおらず、目の前の彼だってどんちゃん騒ぎが好きと言いながらも節度は守っている。そんな彼が誰かに──酒が好きなわけでもない山姥切長義に酒を勧めるのは本当に珍しいことだった。
「えぇっと、今日は何か祝い事でもあったかな」
とりあえず快諾も拒絶もせず、長義は気になったことを聞いてみた。自分の胸に聞いてみても今日は特に催しごとは無く、審神者をはじめ誰もそんな様子ではなかったように思う。そうやって山姥切長義が首を傾げるのも想定内だというように、陸奥守は間を置かずに答えた。
「おんしがここに来た日じゃ」
「ここに来た日?」
鸚鵡返しに答えた彼に「おう」と頷いて続ける。
「監査官としてやない、山姥切長義として来た日。正確には明日やけんど」
「あぁ…………」
言われてみれば、確かに季節はそれくらいだった気がする。正確な日にちも刀帳で管理されているだろうが気にして見たこともない。しなし理由が分かれば遠慮する必要もなかった。
「祝ってくれるのは嬉しいんだが、俺はそこまで酒が得意ではなくてね」
「あぁ、知っちゅうよ」
だったらなぜ、という疑問が出そうになったのを堪える。……まあ、絶対避けたいほど嫌いな訳でもない。既に今日の近侍としての仕事も湯浴みも済ませており、あとは寝るだけだ。とっておきじゃ、という彼の誘いを断るのも気が引けて、長義は彼の厚意を受け取ることにした。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。未開封だった一升瓶の中身がだいぶ少なくなっていることに長義が気付いたときには、辺りはすっかり静まり返っていた。開けっ放しの障子から部屋の外へ視線をやる。虫達でさえ遠慮しているかのようにひっそりとした深夜が始まっていた。
「ん?どういた?」
結局、長義は最初の一杯でちびちび舌を湿らせるのみで、中身の殆どは陸奥守の胃の中に納まっていた。大声で騒いではいないとはいえ、このまま周りを気にせず会話を続けるというのも躊躇われた。誘われた身だがここでお開きを申し出るのが賢明だろう、そう判断したときだった。
複数の足音が部屋へと近付いてくるのに気付いた。
夜の静寂を邪魔しないように静かに、それは陸奥守の部屋の前で止まった。月明かりが遮られて部屋に三人分の人影が落ちる。
「貴方が飲んでいるのは珍しいじゃないですか、山姥切」
そう言ったのは宗三左文字だった。彼だけでなく、弟の小夜左文字と審神者の姿もある。小夜は今日の夜警当番だ。何処かに行く途中だったのか、それとも何処かから帰ってくる途中だったのだろうか。長義は無意識のうちに審神者の少女がが暖かそうな羽織物を着ていることを確認して胸を撫で下ろした。
小夜と審神者のふたりは長義が酒を嗜んでいることにか、若しくは彼らの組み合わせにか、目を丸くして固まっている。かと思えばハッと我に返った審神者の少女が敷居を越えて部屋に入ってきた。
「……長義さん飲んでるんですか?大丈夫ですか……?」
心配げに尋ねてくる彼女に「大丈夫だよ」と応える。確かに彼女の前で飲酒する様子は見せないが(そもそも相手は未成年である)そこまで不安そうにしなくてもいいのでは、と少しだけバツが悪くなる。
「俺はそんな飲んでないからね。彼がどうかは知らないけど」
わざと話題を矛先を初期刀の方に向ければ、少女の視線も赤い顔でからからと笑う陸奥守へ移る。その表情がじわじわと長義に見せた気遣わしげなものではなく眉を寄せた顰め面に変わっていく。
「もう……陸奥守さん!どれだけ飲んでるんですか?明日どうなってもしりませんからね」
わずか十歳の子どもがだいの大人に呆れた顔を見せるなんて不思議な光景だが、そういえば今剣が岩融に同じように言っていたなと思い出す。普段は自分達の保護者として振る舞う彼らが、いざ酒の席となれば飲めや歌えやの大騒ぎをして足元もおぼつかなくなる。それを彼はあの小さい身体で文句を言いながら介抱しようとするのだ。けれど、長義の目にはそのときだけいつもと立場が逆転をするのを彼ら自身楽しんでるように映った。彼らにとっては他愛もないじゃれ合いなのかもしれない。
「すまんすまん。言うほど酔うてはおらんけど、今日はもうお開きかのう」
陸奥守も少女の忠告に素直に答える。呆れられているというのにその顔は笑っていて、つまり、そういうことなのだ。一瞬、ほんの少しだけ胸を締め付けられた感覚に気付かないふりをした。その痛みに名前が付くことを避けたかった。
お開きならば、と空いた酒器を持って立ち上がろうとしたところで宗三の制止が入る。長義の手から酒器を半ば無理やり奪い取ると外を指差す。
「片付けや陸奥守のことは僕達に任せてもらっていいですよ。貴方は水でも飲んで寝てしまいなさい」
「いや、でも……」
先程言った通り、長義はほとんど酒を口にしていない。ここで気遣われる必要などないと断ろうとした長義の言葉を最後まで言わせず、「ねぇ、主」と矛先を審神者へ向ける。
「彼を部屋に送っていってあげたらどうです?」
長義の声に耳を傾けるつもりはないようだ。しかし意味深に向けられた視線からそもそもこちらが彼にとっての狙いかと理解する。本当に、この宗三左文字という刀は第一印象を裏切ってくる。こんな面倒見が良くて気を回してくる刀だなんて聞いていない。
審神者は突然話を振られたことに驚きはしたものの、二つ返事で分かりましたと頷いた。
「じゃあ長義さん、部屋まで送っていってあげますね」
送り届ける役目を与えられた彼女は得意げだ。そんな笑顔を向けられてしまえば長義に断ることなんて出来る筈がない。小夜と宗三はすっかり陸奥守の介抱と片付けの態勢に入っている。そもそも、彼に介抱が必要かは怪しいところだが。
「主……じゃあね、おやすみ」
「ちゃんと送り届けてあげるんですよ」
弟はともかく、兄の方は完全に確信犯だった。
「長義さん、お手洗い寄らなくていいですか?」
「うん、大丈夫だよ」
見上げる視線はこちらを気遣うようにじっとまっすぐに、手のひらは解けないように力強く握られている。すべては慣れない酒に酔っているだろう長義のために。実際には長義は全く酔っておらず、片付けにかかろうとしていたくらいなので勿論ひとりで自室に帰ることに何の問題もない、のだが。
「長義さん?眠いんですか?」
「ううん、ここで倒れそうってことはないよ」
「こっちですよ、もう少しですからね」
(なるほど、これはたしかに……)
普段とは逆転した立場とはこういうことなのか。彼らがこの状況を楽しんでしまうのも仕方ないと思えるほど魅力的である。甘やかされることに慣れていないぶん、照れくささと恥ずかしさが去来するが、胸をくすぐるのは決して不快感ではない。温かな思いやりがじわりと彼の全身に広がっていく。
そうして二人で長屋の廊下を抜ける。
手を繋いだまま自室まで長義を送り届けても審神者は帰ろうとはせず「お布団だしますね」と部屋の中まで入ってきた。彼女が押し入れに向かった拍子に離れていった手を追いかけることもなく、長義は畳の上でぼんやりと立ち尽くした。
押し入れから布団一式を取り出した彼女は手際よく寝床を整えていった。長義の手を借りることもなく、間も無くして寝床の用意を終えると彼を手招く。長義が招かれるままにふらりと緩慢な動作でリボンタイとベストを脱ぎ、敷かれたばかりの布団の上に腰を下ろせば、すかさず審神者が聞いてくる。
「お水持ってきましょうか?」
至れり尽くせりじゃないか、と嬉しく思いながらも首を振って答える。
「いや……気持ち悪いことはないから大丈夫だよ」
本当に必要ないと思ったし、このまま彼女に外へ出て行ってほしくなかった。酔っていないはずなのにな、と心のうちで自嘲する。それなのに、人恋しいだなんて。
「そうですか。……一人で眠れますか?大丈夫ですか?」
「…………」
普段であれば、俺は大丈夫だよありがとう、と微笑んで返すところだろう。これ以上彼女を引き止める理由もない。しかし離れていく温もりを引き止めたいという気持ちは誤魔化しようもなく心の中にあった。このまま傍にいてほしいというのは子供じみたわがままだ。けれど、今ならば酔いを理由にして口にするのを許されるのではないか。
「分からない、かな」
わざと自信が無いそぶりで首を傾げれば、予想通り彼女は腰を下ろしてその場にとどまることを選んだ。手を引いたときと同じように、気遣うような眼差しが僅かに赤みを帯びた彼の顔を覗き込む。
「それなら、私が一緒にいますから、何かあったら言ってくださいね」
「うん」
ほら、と枕を差し向けられたので素直にそこへ転がった。身体を横に倒した拍子で頭がズキと痛んですぐに治まる。しかし顔を顰めた一瞬を見逃さなかった彼女は、幼子にするように彼の頭を撫で始めた。痛みを和らげようと優しい手つきで何度も往復する動きは、普段長義が彼女にしているものと同じだった。
ありがとう、と囁いた声に彼女は首を振って応える。そして布団に横になった長義の肩が隠れるまで掛け布団を引き上げると、自分もその横にすっぽりと収まる。少しだけ身じろぎして居心地の良い場所でも見つけると行儀良く動かなくなった。
「おやすみなさい、長義さん」
全然眠そうでない声が布団の中から聞こえてくる。それに対しておやすみと返して、同じ布団に入った小さな背中に腕を回しその温もりを引き寄せた。心臓の辺りに熱いものが当たるのを感じながら、いつの間にかやってきていた睡魔の誘惑に逆らうことなく、長義はとろりと瞼を下ろした。
ちなみに、陸奥守は二日酔いを理由に次の日の近侍を長義に押し付けることになるのだが、それはまた別の話である。