第四話 初心者の心得

怠慢とは何だろうか。
演練から本丸に戻った後、第一部隊の皆からひとり離れて足を進めながら、陸奥守は自身に問いかけた。昼食の時間は皆が集まる広間以外はしんと静まり返る。陸奥守の自室も例に漏れず、踵が畳に擦れる音も耳に届くほど何も聞こえない。
「ふぅ……」
傷が癒えたはずの身体がなぜか重く感じて、一度座り込んでしまうとなかなか立ち上がることが出来ない。
果たして、今の状況を怠慢というのか。長谷部から出たその言葉に殴られたような衝撃を受けた。子どもだからと甘やかすことが怠慢というならば、争うことに向いていないあの子にもっと戦えと言うのが正しいのか。自分達刀剣男士が折れる覚悟もしろ、構わず進めと言い含めることが正しいというのか。
(たとえ、正しい言うても……)
ひとりじゃないからがんばれます――そう言ったあの子に、自分がしてやれることがこれだなんて。嫌だ、と思った。自分はあの子の味方だ。彼女の身に何が降りかかろうとも、彼女の立つ場所がどれほど危うかろうとも、隣にいると決めている。けれど、それが自分の我儘に過ぎないのではないかという疑念も拭えない。あの子のためを謳うことで、耳が痛くなるような言葉を言わない、それは自己満足でしかないのではないか。そうやって、自分のどこかから糾弾が聞こえる。ならば、こんな自分の気持ちなんて……。
そこで陸奥守ははたと気付く。
――いずれ壊れるぞ。
鶴丸はそう言っていた。ひやりと、胃の中に氷を落とされた心地がした。この瞬間、陸奥守の中には「自分の心は捨て置くべきか」という気持ちさえ頭をもたげていたのだ。彼はきっと、これを心配してくれていたのかもしれない。
自室に戻ってどれほどの時間が経ったのだろう。陸奥守を現実に引き戻したのは遠くから近付く足音だった。軽いそれは短刀の誰かのようだ。そういえば今の時間は昼食で、それを思い出したのと足音の主が現れたのは同時だった。
「陸奥守っ!ひるげのじかんですってばぁ!」
部屋に転がり込んできたのは今剣だ。彼は部屋の主を見つけるとぴょんぴょんとその場で飛び跳ねては陸奥守を急かした。
「あぁ、そうじゃったな……すまん」
行かなければ。そう言い聞かせて膝に力を入れる。そうすることで漸く立ち上がることが出来た。しかしやはり身体が重く感じる。そんな陸奥守の動作から何を推し量ったのか、今剣は吊り上げていた眦を瞬きひとつで普段通りの表情に戻した。丸い眼は曇りなく相手を見据え、一瞬にして彼を取り巻く空気が変わる。
「長谷部のいうことを、きにしすぎてはだめですよ」
凪いだ声だった。普段は主と一緒に庭を駆け回る幼い姿をした短刀が途端に大人びた顔をして陸奥守を諭す。見た目と違い、刀の付喪神としては彼のほうがずっと長生きだといえばその通りだが、それでも少し据わりが悪い。演練後のやりとりは同じ第一部隊である彼も知っている。気まずさのような、羞恥のようなものが、むずがゆく背中を走った。
「ぼくは陸奥守にさんせいです。こどものせいちょうはゆっくりみまもるものですから」
「そうやなぁ……」
それは陸奥守が長谷部に言ったものと同じだった。今剣は普段から何度も口にしていた。こどもがげんきなのはいいことです、と。畑で主と走り回った後や、おやつを頬張る主の姿を見ながら、彼は赤い目を細めて慈しむように微笑っている。彼にとっても主は温かく見守るべき子どもなのだ。
だが、陸奥守は今剣に己と同じ気持ちだと言われても不思議と腑に落ちなかった。自分の考えを肯定してくれていると分かっても、何故か。答えは分かっていた。自分は誰かと仲違いしたいわけではなく、だからといって相手の声を封殺して自分の意見を貫き通したいわけでもないのだ。
「……けんど、長谷部が言いゆう、ちくちくでも強うならんといけんことも、分かっちゅう」
「陸奥守……」
「今が正しいんか、何が正しいんか……わしじゃあ、どうしたらええか分からんなってしもうた。」
初めての弱音は乾いた笑いとともに吐き出された。それこそが本音だったと口に出してから分かる。そして口にしただけで解決するわけではないことも。だが、今まで自身の内だけで渦巻いて澱みかけていた想いを吐き出したことによる気持ちの軽さははっきりと感じられた。
今剣は困ったり驚いたりを顔に出すこともなく、ただ頷いた。ただし彼も言葉を探してるようだった。
「なら、一緒に考えようじゃないか」
「っ!?」
部屋の外から返事が返ってくる。いきなりのことに驚きで息が止まるかと思った。会話に集中していたとはいえ、彼が近付いてくることに気付かないとは。視線の先には内番姿に姿を変えた鶴丸国永が盆を手に立っており、そこには本日の昼食が乗せられている。
「鶴丸!」
「今剣が呼びに行ってまま帰ってこなくてなぁ。もう片付けるみたいだったし、ほら陸奥守、君の分だ」
「おぉ……すまん」
まだ温かい昼食を陸奥守に渡しても鶴丸は踵を返そうとしない。むしろ腰を浮かせた陸奥守へ座るように促して自身もその場に腰を下ろした。
「あまり自分だけで背負い込みすぎるな……だろう?」
繰り返し聞いた言葉だ。陸奥守はついに観念した。……観念したというのだろうか、とにかくこれ以上はひとりで抱え込まなくて良いと思えた。もう、抱え込めないと思ったのかもしれない。
「そうやなぁ」
料理に手を伸ばす。これは陸奥守たち第一部隊が演練に出ている間に薬研や宗三が作ってくれたものだ。一汁三菜の整った料理は文句の付けどころがないほど美味しい。元の主からの影響かと思っていたがどうやらそうではないらしい。他の本丸の彼らで料理をする者は少ないと聞いた。様々なところで多くの仲間に助けられている。……違う。助けられているのではなく、彼らはともに本丸のために動いているだけだ。
これを持ってくるときなぁ、と盆を指差して鶴丸は仕掛けた悪戯を暴露するように笑った。
「口にはしなかったが、長谷部も気にしてたぜ」
意外な名前に箸が止まる。(長谷部が?)そんな陸奥守の驚きは視線で伝わっていた。鶴丸はしたり顔で頷いて続ける。
「今剣が帰ってこないこともアイツが一番気にしてたんだ」
そう言われたところで、そんな彼を想像しようとしても上手くいかない。陸奥守が知っているへし切長谷部はたいてい難しい顔をしている。最初からそういう性格なのだと思っていたから気にすることもなかった。ただ、そんな彼も常にむすりとしているわけではない。記憶の中で、彼は主の傍でおやつを食べているときによく笑っていた。
「なんやそれ、見てみたかったなぁ」
「ねー。ぼくもみたかったですよ」
「ふふ、そうだろうそうだろう!」
新しい発見に喜んだ。こんな些細なことを、けれどこんな些細なことでさえ知らなかった。知らなかったことを知って、嬉しかった。それを教えてくれた、うんと長生きの刀は目を輝かせて指を立てる。芝居がかった仕草がよく似合っていた。
「せっかく時代も経歴も違う奴らばかりなんだ。集まって知恵を出したら面白そうじゃないか」

陸奥守は空になった盆を手に厨に向かう。出陣も演練もない午後の本丸は穏やかだ。内番に精を出す者や手合わせや鍛錬にいそしむ者もいれば、自室で趣味を楽しむ者もいる。
鶴丸はまた部隊全員で話し合おうと言い残して去っていった。今剣は彼の後に立ち去る際に「ぼくは陸奥守のみかたですよ」と念を押していった。鶴丸の言うことは尤もで、ならば何時、どんなふうに機会を設けようか。そんなことを考えながら歩いていた。
まだおやつの時間にも早すぎるので厨には誰もいないだろう、そんな己の予想は外れた。食後の片付けも終わったそこに、小さな影がひとつ。
「……主、どうしたんや」
物音も、呼吸の音も聞こえなかった。その場の静寂を守ったまま、彼女は座っていた丸椅子から腰を浮かせて立ち上がる。窓の外へ向けられていた視線を入ってきた陸奥守の方へ、その手の中の盆へ向けて口を開く。
「陸奥守さんこそ……ごはん、ちゃんと食べられましたか?」
「おぉ。残さずな。主は?」
「私もみんな食べましたよ。おいしかったです」
口元に笑みを浮かべ、そして手に持っていた袋を陸奥守の方へ両手で差し出す。
「あげます」
手のひらに収まるのは個包装のビスケットだ。おやつの時間に用意されるそれは彼女のお気に入りで、いつのまにか戸棚に常備されるようになった。それをあげるなんて言われたのは初めてだ。陸奥守は驚きのあまり固まってしまう。
「だって陸奥守さん、なんだか元気なさそうだから……」
当然のように帰ってきた答えは、答え合わせの必要も無いくらい確信を持っていた。それでいて理由を聞こうとはしない。彼女はただ自分の好きなものを贈ろうとする。
「優しいなぁ、おんしは」
言われた意味がわからず首を傾げる少女。優しい? どうして? その視線が訴えている。疑問を口にされる前に「一緒に食べるか」と聞けば、少女は少し悩んでから頷いた。問われても困るのだ。陸奥守だってそう思った理由を聞かれても上手く説明出来る自信はないのだから。
今から食べるつもりなのか、戸棚から新しい袋を取り出す後ろ姿は嬉しそうに見える。やはり好きなものは好きなものだ。自分が貰うだけにならなくて良かったと陸奥守はほっとした。
「わし、元気なさそうに見えたかえ?」
「はい。……ちがいましたか?」
肯定も否定もしづらかったから返事を濁すように笑う。そして自分は答えないくせに聞き返した。
「おんしこそ……つらくは、ないがか」
臆病で卑怯な質問だと自覚はあった。ここでもし彼女が弱音を口にすれば、それを理由に変わらないでいることを許される気がした。
「何が?」
菓子を両手に持って陸奥守の傍まで戻ってきた彼女は質問の意味が分からずに聞き返した。その言葉自体、身に覚えがないものとして響いたのかもしれない。
「本丸で戦うことらぁ、寂しかったり、辛かったりせんかと……」
次第に声の大きさが尻すぼみになる。言葉にすることで、それが感情の呼び水にならないか途中で怖くなってきた。実際、陸奥守の胸のうちは口にするたびに冷たいものがおりてくる。馬鹿だ。この子を言い訳にしようとしたくせに。
「あぁ、なるほど」
応えた声は軽く渇いていた。丸い輪郭はひび割れることなく柔らかさを帯びたまま、愛される膨らみをもった頬が動いて微笑を作り出す。
「うん、ひとりじゃないですもん」
片手に持っていたビスケットを陸奥守に渡し、残った袋を両手を使って開けた。両手に袋を持っていてはどちらかを置かなくては開けられないが、ひとつなら難なく開けることが出来る。
「こんのすけと陸奥守さんと、みんながいてくれるから、大丈夫です」
それは初陣の後で交わした会話に似ている。けれどあの頃より少しだけ強かに子どもは笑っていた。
あのとき、この幼くて頼りない身体を何からも守りたいと思っていた。今もその気持ちは変わっていないが、最初に想像していたより考えることもやるべきことも沢山あって、自分ひとりでは手が回らなくなっていた。どうすれば良かったか。これから、どうすればいいか。
「……わしも、そうじゃ。おんしも、みんなもおるし、つらくはないなぁ」
きっと、自分が思うよりも周りに助けられている。かたちの無い力は、時には優しく時には厳しいもので、けれど確実に存在する。秘密を共有したかのような高揚感をもって、ふたりは顔を見合わせて笑みを零した。
「でも……まだひとりで話すのはドキドキするから、陸奥守さんも一緒にいてほしいです。いいですか?」
じぃと此方を見つめる眼差し。質問のかたちをとりながらもこちらが頷くと信じて疑わない。その視線に込められた信頼がどれだけ自分の力になるかを再確認しながら、陸奥守は「任せちょけ」と笑顔で返した。