朝食のとき、視線があったことを偶然だと思えなかった。
言葉を交わすには遠い距離で、確実に何かの意図があっての眼差し。だからその日のうちに彼の方から声を掛けられたときにも驚きはなかった。
「山姥切、ちっくと時間ええか?」
「あぁ、分かってるよ」
午前で出陣を終えて非番となった午後、何の約束もなく部屋で時間を持て余していた俺を訪ねてきたのは陸奥守吉行だった。二つ返事で頷いた俺の言葉に苦笑が返ってくる。
「分かっちゅう、なぁ……まぁおんしの場合はそうやと思うたが……」
「あの子が俺のせいで落ち込んでるって……。前の馬当番の日、加州くんにも言われたよ」
「清光……?」
そのことは初耳だったらしく、目を丸くしてどこか決まりが悪そうにしている。図らずも同じ行動をしたことに何か思うところがあるらしい。
「君たちは揃いも揃って過保護だね」
「せやなぁ……やけんど、おんしもやろ? 主が言うちょった、政府にいる頃は本当の兄みたいにようしてもろうたち」
「あぁ……あのときは、ね。……君は、嫉妬はしないのかな」
──陸奥守吉行。あの子の最初の刀であり、誰かが「兄みたいな存在だ」と称していた、それが個人的な印象ではないことなど数日共にいれば分かる。誰にでも愛想が良いのはいつものこと、困っている者がいれば話を聞き、喧嘩を見れば仲裁に入る。この本丸があの子にとって居場所となるには不可欠だった存在。
そんな彼が、俺のように後からやって来た昔馴染みだという刀剣男士に対して何を思うのか、ずっと聞いてみたかったのだ。陸奥守は何を言われたか分からずぽかりと動きを止めていたが、合点言ったところで目を丸くする。
「まさか! わしは、あの子が幸せやったらそれでええ」
そんなこと思いもしなかった、と言わんばかりに驚く姿は虚勢には見えない。これまで見てきた彼の性質を考えてもその言葉が真実なのだと分かった。心から彼女の幸せを喜んでいる。いい刀だ。
どうして俺は、そう思えないのだろう。
「君と比べて、俺はなんて惨めなんだろうね」
「惨めだらぁて自分で言うものやない」
思わず零れた自虐の言葉へ被せるように否定の言葉が飛んでくる。陸奥守の顔は既に笑ってない、怒っているようにも見えたが熱くなっているようではない、とても静かなものだった。
「啓は、お前に嫌われてしもうたらって凹んじょったき」
「こんな俺でも?」
皮肉に笑ってしまったのは無意識だった。俺の反応を咎めるでもなく彼は続ける。
「あの子は、この本丸の主や。けんど、それでもただの子どもやき、寂しいとか思うのは当然じゃ」
そう言われてみればそうか。いくら歳を重ねたとはいえまだ子ども、相手が誰であろうと嫌われたと感じれば辛いものがあるだろう。
そう納得している俺に陸奥守は突然話を変えた。
「それに、おまんはおまんが来た日、あの子がどんなに喜んだことかなんて知っちゅうか?」
「俺が来た日?」
俺がこの本丸に来た日とは聚楽第の監査の結果、この本丸に俺が配属された日のことだ。そう遠くない日のことだが、ここに来てから思い出すことはほぼ無かった。積極的に思い返したいものでもない。
あの頃の俺には、聚楽第で活躍する写しを見るたび黒く澱んだ感情が濃くなっていった。あの子に会える日が近付く喜びと同じくらい、周りに頼りにされている写しへの劣等感と憎しみが増していった。
──どうせ俺は、この子の本丸では山姥切にはなれない。
いつのまにかそんなことまで思うようになってしまい。
会えて嬉しかったのは本当だ。それなのに、あの子に再会したときは長義さんと呼ばれたことへの失望に打ちのめされて、もしかしたら……なんて水面に浮かぶ泡沫ほどの可能性も消え去った。そのことばかり、記憶に濃く残っている。
けれど、言われて思い返してみる。長義さんと呼んだあの子の顔は笑っていた。
それこそ、昔の続きのように、あの頃と変わらない笑顔で。
「そういえば、あの子は笑っていたね」
「やろ? やき、会いに行っちゃってくれ。おまんが自分で思うよりもあの子にとってまっこと大事な存在なんやき」
(あぁ、敵わない)
陸奥守の言う通りだ。俺が自分を惨めに思うかどうかなんてあの子には関係ないことだ。それなのに無意識のうちに自分を下げることで距離を置くようにして、結果寂しい思いをさせている。
「そうなのか……そうしようかな」
それならば今度は俺が動かなければ。
その日の夕食を終えて各々が自由に過ごす時間、広間はそのまま宴会の会場となったため参加者以外は部屋へ退散していく。
外に出ている気配が少なくなる時間を待って長屋の廊下を抜けた。
幸いにも道中誰ともすれ違うことは無かった。向かう部屋の障子から光が零れているのにひゅっと息が詰まる。自分でこの時間を狙ってきたというのに。
(せめて近侍だけであってほしいんだが)
陸奥守が昼間こちらに出向いてきていたということは非番だった筈、今日の近侍はへし切長谷部か鶴丸国永のどちらかか。どちらにせよ話しにくい相手に違いはないがそう言っている場合でもない。
「主、いるかな」
「……ん? え、誰ですか? あ、はい、大丈夫です」
障子越しに聞こえる気の抜けた声。不用心だな、と障子に手を掛けようとした瞬間、戸が勝手に開き部屋の光景が目の前に飛び込んできた。
真っ先に見えたのは湯上りと思われる様子の審神者の姿、それから廊下に近い場所に控えていた短刀。扉の不思議は彼の仕業のようだ。
「山姥切長義、あるじさまになにかようですか?」
表情をぴくりとも変えず今剣が唇だけを動かす。真昼に声を上げて無邪気に笑う姿しか見ていない分、今の無機質さに違和感と気味悪さを感じた。
「……今日の近侍はいないのかな」
「あっ……、鶴丸さんはお風呂で……その間いまつる君が居てくれてるんです」
「やまんばぎりちょうぎ?」
最初より張り上げた声で名を呼ばれる。答えろ、と言わんばかりに。
「すまないね。俺は主に謝りに来たんだ。こんな遅くに不躾だとは思うが」
「ふぅん? ……ふーーん?」
「い、いまつる君……」
審神者がおろおろと彼を呼ぶと 、「わかってますよぉ、あるじさま」と俺へ向けていた胡乱な視線は外された。むぅと唇を突き出し、言葉とは裏腹に納得していない様子ではあるが。
直後、ぱっと明るい声を上げて立ち上がる。表情がころころと変わる刀だ。
「いじわるでしたね! 山姥切がいるならあんしんでしょうから、ぼくはへやにもどります!」
「ううん、気にしてくれてありがとうね、いまつる君」
彼女が言い終わるより早く軽やかな足音が横をすり抜けていく。夜の静けさの邪魔にならないほど小さいそれはすぐに聞こえなくなっていった。
「かぜ、ひいちゃいますよ」
「あぁ」
敷居を跨ぎ開けっ放しだった障子を閉じる。廊下より少し暖かかったが、外気が入ってきた分どこか寒さを感じた。
「君はお風呂上がりみたいだね。湯冷めをしないように暖かくしないと。何か羽織るものはあるかな」
「大丈夫ですよ。えぇっと……これ着るから」
部屋全体を見渡そうとするより前に彼女自身が動いた。衣紋掛けに掛かっていた橙色の羽織を肩から掛けると襟ぐりを合わせ、そして元の位置に座り直す。
その動作の途中「びっくりしました」とまるで思わず漏れた独り言が聞こえてくる。
「謝らなきゃいけないのは私の方なのにって思ってたんです」
「な……」
久しぶりに俺に向けられた笑顔、それに見えない壁のようなものを感じたのはこちらの心持ちだけの問題だろうか。たとえそうだとしても、そのことに寂しさを感じるなんて、彼女が嫌がることを繰り返し口にしておきながら傲慢にも程がある。
胸元の指が白く見えるのは羽織を握る手の力強さのせいだ。これから何を言われるか、刑を受ける囚人のように待ち構えている姿は見ていて悲しくなってくる。
「そんなことを思う必要は無いよ。君が言うことは正しいんだから」
俺がうだうだしている間にこの子が一人罪悪感を抱えてしまっていたのだとしたら、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。この子が不安になることのないよう、たとえ葛藤を殺してでも、俺は笑っていなければ。
「俺が本丸に来たとき、君がとても喜んでくれたのを思い出したんだ」
俺の言葉に合わせてコクコクと頷く脳裏に、そのときの光景が流れていてほしいと思う。何を言われるんじゃないかと怯えないでほしい。本当に、どの口が言うのかという話だが。
「俺も、この本丸に来られてとても嬉しい。君に会いたかったから」
「…………。ほんとうに?」
まさかそんなことを確認されるとは思わなかった。とはいえ彼女にとっては真剣な問い。確認しなければ不安になるような態度を俺が今までとってきたから。
「勿論、本当だよ」
短い言葉で伝えられるものは多くはない。きっと陸奥守なら笑顔と短い言葉だけで不安を取り除いてあげられるのかもしれないが、同じように俺がしても上辺だけととられてしまうだろう。
「それなら、よかったです」
彼女はぎこちなく笑った。相手に笑顔を見せなければと意識して作られた笑みは大人びていて、それでいて少し寂しい気持ちになった。