別れの日を思い出す。
とはいえ、あの子は俺といつ別れたのかなんて覚えていないだろう。たとえ覚えていたとしても、俺と彼女が思う最後の日が一致することはない。
なぜならあの子は、あの日、床の間に飾られていた一振の刀が何なのかなんて、覚えているはずがないのだから。
「山姥切くん、本当にごめんね」
仲の良い職員が気まずそうに話を切り出したものだから何事かと身構える。が、言いづらそうに続けられた内容は想定内で、驚くものでもなかった。
『初期刀に選ばれる選択肢の一振に山姥切国広がいる』
分かっていた。あれは俺の写しであり刀工堀川国広の傑作。最初の一振として選ばれても当然だ。
「私達としては、山姥切くんと初期刀の山姥切国広が似てるとは思わないんだけど……。全員からそう見える訳じゃないから、万が一ってことを言われると何も言い返せなくて」
「分かっているよ」
政府が言うことは尤もであり、彼女を責めるのも政府に憤るのもお門違いだ。
俺はあの子に刀剣男士の山姥切長義ではなく、政府職員のひとりとして接してきた。その認識はこれから彼女が本丸に着任し俺と別れた後も覆ってはいけない。あの子の傍に俺が居続けたのは、大局から見れば山姥切長義の存在が審神者に露呈するリスクを増やしたことになったのだ。
思い返してみれば出会いは偶然が重なった故の出来事だった。世話係だった女性職員がインフルエンザに掛からなければ、代わりに見ていたのがあのお気楽な男性職員でなければ、そもそもこの施設に預けられなければ、こんなことにはなっていなかった。俺はあの子を知らず、あの子は俺を知らず生きていただろう。
「俺はもう、あの子には会わない方がいいのかな」
自分で口にしておきながら胸に重いものが落ちて臓腑を引き攣らせる。
返事はない。しかし、ぐっと眉を寄せて目を伏せる彼女の、睫毛の隙間から零れていく涙が答えだった。事実とはいえ口にするには酷な言葉を、この優しい人間が言わずに済んで良かった。
「この日が来ることはずっと前から決まっていた。今更恨み言なんて言うわけがないよ」
ずっと続くのではと思うほど穏やかな日常も、あの子が審神者になるまでの期限付きのものだと分かっていた。別に相手への気遣いや慰めでもなく、本当に恨みなど全く無い。
付き合いの長い彼女も俺の返事に頷いて応える。
「……山姥切くんが私達を恨まないことは分かってたよ。貴方は優しいから」
俺への評価が「優しい」というのは初耳で純粋に驚いたが、ここで世辞だと笑いを返すところでもない。否定しても仕方ないので「ありがとう」と礼だけ伝えておく。
「一つだけ、もし叶えてもらえそうならお願いしていいかな」
「うん、私達にできることなら」
駄目で元々と聞いてみただけだったが肯定が返ってくる。まさか政府の人間が刀剣男士の希望を聞こうとするなんて、変わり者で済ませるには優しすぎる。
彼女の一存で出来ることでもないだろうから、本当に不可能ならばそれで良い。ただ、口にしないまま後悔はしたくなかった。
──どんな姿でもいい、最後にあの子に会いたい。
そんな俺の願いはあっさりと叶えられた。いや、裏では難航したのかもしれないが、少なくとも俺が感じる範囲ではすんなり認められた。どんな姿でもといった言葉通り、人のカタチをして会うことは許されなかったが。
(まだ時間があるというのに……あんなに固まって)
正式に審神者に就くにあたって呼び出された部屋は八畳程度の小さな和室で、これからを共に過ごすこんのすけが隣に控え、当の本人は借りてきた猫のように固まっている。
そして俺はそれを床の間の刀掛けの上から眺めていた。
「ずいぶんと緊張していませんか?」
沈黙を破ったのはこんのすけの方で、話を振られた彼女も詰まっていたものを吐き出さんばかりに大きく息を吐いた。
「当たり前だよ……すごくドキドキするぅ」
「たくさん勉強したではないですか。心配することなんてありませんよ」
不安げにぽつりと吐き出された言葉に対して明るく返すこんのすけはただ無責任に励ましの言葉を並べている訳でもない。そう言えるだけの努力を今までこの子はやってきた。俺もこんのすけと同意見だ。
だが、彼女の緊張の種はそこにある訳ではないようだ。
「でも、さにわになったら刀の神さまと一緒に戦うんだよね? 神さまって怖くないの?」
「怖い、ですか……そうですねぇ」
俺がいることを分かっているこんのすけが気まずそうに言葉を詰まらせるから、彼の心境を思うとおかしくて笑いを零してしまった。傍の彼女に悟られないよう小さな動きで向けられた視線には困惑の色が見える。それには肩を竦める仕草で応えた。
(怖い……怖い、ねぇ)
目から鱗が落ちるようだった。むしろ忘れていたことに気付かされたと言うべきか。この子にとっては刀剣男士という付喪神はまだ未知の存在であり、恐ろしいものなのか。
さて、こんのすけは何と返すのだろうかと見守っているつもりだったが、それより早く彼女が動いた。
「優しい神さまだといいなぁ。ここのお姉さんか、お兄ちゃんみたいなひとだったらいいのに」
(俺……?)
その『お兄ちゃん』は俺のことだと自惚れていいのだろうか。この子にそう呼ばれていたのは俺だけとはいえ、この子に優しいと思われるほどの存在だったかどうか、自分では分からない。
俺が首を傾げていることなんて知らないふたりの会話は続く。普段から感情の読めない管狐の顔が笑ったように見えた。
「えぇ、大丈夫です。神様といえど、怖いことなんてないのです。優しい方達なのですから」
それから三年、四年と待ち続け、その時がやってきた。
特命調査、聚楽第。その監査官への任命。
該当する本丸へ出向いて任務に同行、評定を行い結果によって刀剣男士として配属となる。
担当はあの子の本丸だと聞いて当然だと頷く。俺以外の山姥切長義があの子の傍に行くことなど想像すらしなかった。
……ようやく会える。今までの傾向からも彼女の本丸は優をとるだろう。別れの日以降、人伝や報告書でしか知ることの出来なかったあの子に会うことができ、そして今度はずっと一振の刀剣男士として傍にいられる。
これで最後だろうと女性職員と笑いあっていたとき、相手がいきなり頭を下げた。不意のことに動きを止めた俺へ彼女はこう言った。
──あの子が生きていくこれからの歴史のためにも、これからもどうか力を貸して下さい。
勿論、と返そうとして言葉に詰まった。腹からぐるぐると込み上げてくる気持ち悪さの原因に覚えはない。どうにか喉から絞り出して「大丈夫だよ」と応えたが、後から思い返せばまるで自分に言い聞かせているようだった。
(俺が守る歴史とは何だ……?)
そうして監査官として本丸を訪れた。想定通り警戒心を顕に訝しむ視線に迎えられ、通されたのは審神者の仕事に使われている部屋だった。数年ぶりに対面した少女の顔はあどけなさが少し削がれそのぶん精悍になった気がした。声色も落ち着いており、俺の想像よりも子どもらしかぬ印象だ。
「じゅらくてい、ですか」
「──以上だ。現地で待つ」
「あ、あのっ……!」
「詳しい説明は本丸配属のこんのすけに託している。不満なら反乱を起こしてもいいが……まあ、無事ではすまないな」
何かを言おうとした彼女を遮ることでそれ以上の詮索を避ける。何が言いたかったのかは気になるが、己の正体を此処で明らかにする訳にはいかない。
もしも彼女の言いたいことが俺の正体に関することならば、なんて。勘づいたのかもしれない、なんて。ただの願望に過ぎないのに。
監査官からの素気無い返答に対して彼女の決断は早かった。先程まで言おうとしていたことをぐっと堪え、真っ直ぐにこちらを見据える。
「反乱なんてしません。参加します。頑張ってるところ、分かってほしいですから」
「そうやなぁ。疑われちゅうんやったら証明すりゃええだけじゃ」
隣に控えていた陸奥守吉行が頷く。初期刀の同意に勇気づけられ、彼女も微笑んで小さく握り拳を作った。そんな少しのやり取りからもこの子達が積み重ねてきた時間と交わしてきた思いが伝わってくる。審神者と刀剣男士だからこそ築かれる信頼関係は俺には得られなかったものだ。
まだ、その時は仕方ないことだと思えていた。ただ時間の問題だけだ、この任務を終えて此処へ配属となれば俺だってすぐにそうやって築くことが出来る。此処にいる誰より昔からこの子の傍にいたのだから。そしてきっと、あの子は俺の名前を呼ぶのだ、と。
……だが、そんなふうに思えたのは少しの間だった。
始まった特命調査の監査は俺にとって耐え難きもの、日々黒い澱みが増していくものでしかなかった。
彼女が出陣部隊に選んだのは陸奥守吉行を隊長に小夜左文字、今剣、山姥切国広、堀川国広、薬研藤四郎の六振。その全員が修行を終えているが、この中で最も練度が低い山姥切国広は先日修行から戻ってきたばかり。
奴と審神者が言葉を交わす場に遭遇してしまったのは偶然のことだった。
『そうだ、……山姥切さん!』
出立の前、不意に口を開いた彼女の声に思わず振り返る。呼ばれた、と思ってしまった。勿論呼ばれたのは俺ではなく、間を置かずに応えを返したのは本丸で唯一山姥切の名を持つ刀だ。
『どうした、主』
『出陣の前に錬結しませんか』
『あぁ、頼む』
当たり前のように山姥切と呼ばれて応える写しの刀に、呼ぶ彼女に、感情のまま吐き出して当たり散らしそうになるのを堪えるしかなかった。
(山姥切は俺だ。早く俺を、俺の名前を呼んでくれ)
特命調査での監査中はずっと苛立っていた。本丸に来たら認識を改めてやると、最初は思っていた。けれど不可能という言葉が脳裏を過ぎることが増えていって、どうせと諦めるようになってしまった。
そうだ。
もういっそ諦めてしまえば良い。あの子の悲しむ顔を見るくらいならば、俺が諦めてしまえば解決する話なのだから。彼女にとっての山姥切は昔から居たあの写しであり、あとは俺がそれに頷けば良い。
それだけのことで、きっとこの本丸は穏やかに……あの子が望むようにまわるのだ。
(君が笑っていてくれるなら)
審神者に仕える一振の刀として出来ることならば何でもしよう。それで俺の何を削ることになろうとも。