自分だけの日

今日は近侍の日だ。逸る気持ちを抑えて足音を極力立てないように部屋へ向かう。気の持ちようだと分かっていても取り巻く空気すら昨日より澄んでいるように感じる。辿り着いた部屋の障子を一声かけて開けると身なりを整えた少女がこちらを振り返る。そして──
「監査官さん……? 」
「──な、」
見開いた目と引き攣った頬、そこから読み取れるのは混乱と恐怖。訳も分からず部屋の中へ一歩踏み出せば、そのぶん相手は部屋の奥へと後退って距離を置いた。眉尻を下げてきょろきょろと辺りを見回し小さな唇が戦慄く。
「む、むつのかみさん、どこ……?」
助けを求めるように初期刀を呼び続ける彼女に俺は指一本触れることすら出来なかった。

今日は近侍の日だ。それなのに起きたときからどこか身体の調子が悪く、それが今も続いている。理由には覚えがある。最近寝つきが悪い。否、正直にいえば夢見が悪いのだ。
(身体が痛い……眠い、怠いのか……?)
先程から欠伸の回数も増えており手元の書類の内容も頭に入ってこなくて読み直すばかり。なかなか作業も進まない。
「──それで、遠征の行き先なんですが、……長義さん?」
今は何をしていたのか。手に持った書類は何だったか。もう一度ちゃんと考え直さなければ。
「──、もし、──長義さん?」
「え……?」
彼女の声が聞こえる、今まで聞こえていなかった。ハッとして顔を上げると此方をじっと見据える眼差しと正面からぶつかる。何か言わなければと言葉を探すより彼女の方が早かった。
「長義さん、体調が悪いなら休みますか? 陸奥守さんに代わってもらうよう言いますから」
「……大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
笑みを作って答えはしたが声を出してみると喉に痛みが走るし吐き出した呼気も熱い気がする。
そして彼女は全然納得いっていない。
「でも……ううん、ちょっと触りますよ」
断りを入れるやいなや彼女の手が伸びてくる。それにも反応が遅れて避けることが出来なかった。ひやりとした手が額と頬を順に触れていくのを心地好く思う。
(あぁ、これは)
俺が自覚したその症状に当然彼女も気付く。信じられないと眉をひそめ、身を乗り出してくる。
「熱があります。風邪ですよ、休まなきゃ」
「大丈夫だよ。今日は座ってるだけだし」
「でも、辛そうです」
「はは、心配しす、ぎ──」
安心させる言葉を紡ごうとした俺を襲ったのは視界がぐるりと回る気持ち悪さ。身体のバランスを保っていられないと分かった次の瞬間、身体を畳に叩きつけられた衝撃と少し遅れてやってきた頭の痛み。
ぐるぐると回る不明瞭な視界に目を開けていることが叶わない。同じ部屋にいる彼女の声が聞こえる方向も分からなくなった。
「っ、あ、──だ、だれか、 助けてください! 陸奥守さん!!」
慌ただしく障子を開けて走り去っていく足音が遠くなる。初期刀の名前を呼んで去っていく彼女に俺はどうすることも出来ない。出来たのは虚しさと情けなさに歯を食いしばりながら、込み上げてくるものを堪えることだけ。

(どうか、俺に失望しないで)

柔らかな感触に包まれている。
意識が浮上すると同時に自分の状況を確認する。横たわっているのは布団の上、丁寧に掛け布団まで掛けられており、後頭部を冷やしているのは氷枕だろう。
目に入った天井は自室のもので、目の回る不快感は今は無くなっている。周囲を見ようと頭を少し動かせば氷枕がころころと音を鳴らす。視線を巡らせて気付く。入口に近いところで目立つ色彩の刀剣男士が佇んでいた。
「起きましたか」
「宗三左文字……?」
意外な存在への疑問がそのまま声のトーンとして表出される。俺の疑問は彼も思うところだったのだろう、言葉にする前に答えが返ってくる。
「たまたま暇してたところを陸奥守に捕まりましてね、水と、毛布を用意していたんです」
そう言って指した指の先──俺の枕元には水差しとコップがあり、彼の足元にはこの季節には少し早い掛け毛布が畳んで置いてある。
俺のために用意されたのだと知ってそろりと身体を起こそうとした。背中が酷く痛み、思い出したように頭痛も走ったせいで思ったより動けない。
宗三は横で毛布を広げたかと思うと掛布団を剥ぎとってくる。冷気に晒され寒気を感じるのも束の間、手際良く掛けられた毛布に身体が包まれる。何もしないうちに上から掛け布団を被せられ小さなズレも整えられる、慣れた手つきだった。
「貴方も他の近侍たちと同じで働きすぎなんですよ。沢山寝て、沢山食べれば熱も下がります」
近侍、と言われて思い出す。
「そういえば、近侍の仕事は……」
「近侍には非番の陸奥守が入りましたよ」
やはり、と納得する自分とそれも含めてショックを受けている自分。分かっていたことを改めて目の当たりにして、肉体が弱っているからもあるのだろうが強く打ちのめされた気分だった。
結局、あの子が頼りにするのはあの初期刀で。俺が頑張って傍にいようとしても些細なきっかけでそれは崩れていく。
そんな俺の沈んだ心を、声に出さずとも目の前の刀は読み取って口を開く。彼は意外と他者の心の機敏に聡い。
「あの刀と同じように動こうなんて無理な話ですよ。貴方には貴方の動き方があるのだから、そんなに落ち込まなくてもいいのに」
それだけ言い残して、彼は部屋から出て行った。
ひとり残されてまた天井を眺めるしか無くなる。熱を持った手足と動かすと痛む関節に観念して瞼を閉じる。
病は気から、という言葉を実感する。疲れていたのだと自覚した途端、強烈な眠気が襲ってくるのだから。
(いやだ)
本当は、あんな悪夢を見るのであれば眠りたくない。けれど眠って体力を回復させなければ、あの子の隣に戻れない。
そんな鬱々とまわる思考回路も次第に働かなくなっていく。

この夢もきっと悪夢なんだ。

「やっぱり私、長義さんに無理をさせてしまいましたね」
また俺は指一本動かすことも出来ず彼女を見つめている。

「近侍をすることが負担になるなら、無理にさせたくなかったのに」
何か言おうと口を開いても乾ききった喉では何の音も出ない。

「ううん、そんなことを言っても絶対に引かないですよね」
彼女の笑顔は少し怒っているようにも見えた。

「だったら私が、長義さんを近侍から外すことにしないと」

きっと、たとえ声が出たとしても、俺が君に否と言えることはないのだけど。

ゆっくりと夢が形を失っていく。
毛布の心地良い肌触り、頭を冷やす少し温くなった氷枕を感じ、緩やかに意識がはっきりとしてきた。
どれだけ寝ていただろうか。壁に掛かった時計を見れば太い針が三を指している。障子越しに柔らかい光が差し込んでいることを思うと丁度おやつ時なのかもしれない。
宗三と話したときは正午になっていなかったので長い間眠っていたようだ。喉が渇いていることに気付き水差しの存在を思い出す。
視線を横に向けたところで、初めてそこにいた存在に気付く。
「──」
彼女の名を呼んだ筈の乾いた声は音にならなかった。先程まで見ていた夢のように。
思わず肘をついて上体を起こし様子を窺う。目を瞑って畳に伏せる姿に一瞬肝が冷えたが、眠っているだけだと安堵の息を漏らす。 彼女の近くには盆に乗った小さな土鍋がある。持ってきてくれたのか、とその優しさが渇いた身体に沁みた。
俺を無理に起こそうとはせず、自然に起きるまで待っていようとして寝てしまったのだろう。
(なにか掛けてあげないと)
押し入れまで動く気力はないので仕方なく自分に掛けられた毛布を引き抜いて彼女へ近付く。ひやりと冷気が身を包むのも構わない。温もりへの名残惜しさなど一切無かった。
どれくらいここに居たのか、触れた肩は可哀想なほど冷たかった。これではこの子が風邪をひいてしまう。
「ん……ん、……?」
俺が触れた拍子で瞼が震えた。そしてゆっくりと持ち上がる。春の草原を連想させるような瞳が姿をあらわし、最初は揺れていたそれが徐々にこちらへ焦点を合わせていく。俺を視界に捉えた彼女は二、三度瞬きをして唇を小さく開いた。
「ちょーぎさん……?」
「うん、そうだよ」
まだ夢の中なのか呂律もあやしい。その稚さに笑みが堪えきれず頬を弛めながら見守っていると彼女も自身の状況を理解し始めたらしい。周りを見て、俺の姿を見て、手元の盆を見て、また俺の顔を見る。
「え……? あ、あれ……、あっ!? そ、そういえばおかゆを……!」
「これのことかな」
「あーっ! ダメですよ、寝てて下さい! まだ、寝られるだけ寝て下さい! ほら、毛布も、ちゃんと掛けて!」
俺が手を伸ばすのを遮るように盆ごと遠ざける。勢いが良すぎたせいで盆の上の土鍋と蓮華が音を立てた。
あまりに必死な様子に今度は笑い声も抑えきれなくなってしまう。一方で土鍋を持ち上げた少女は「しまった」という顔になり、分かりやすく肩を落とした。
「おかゆ……作ったんですけど……」
「うん」
(作ってくれたのか)
「冷めたから、なにか別の持ってきます」
「いいよ、それが欲しい」
返事は口をついて出ていた。用意してくれたものを突き返す選択肢は端から無かったが、それが作ってくれたものなら尚更の事。
「でも……」
「君が折角作ってくれたんだ。俺は、それが欲しい」
彼女が何か言う前に言葉を重ねる。俺が気を遣って言っているのではないことは伝わったようだ。納得いかないといった表情だがおずおずと盆を差し出してくる。
それを受け取って土鍋の蓋を取ると、薄く色づいた白米が水を吸って膨らんでいた。
手を合わせてから蓮華を取り土鍋の中に差し入れると米はほぐれることなく塊のまま掬いあげられた。この時点で到底お粥とはよべないそれを口に運んで咀嚼すれば、噛むほど口の中に米が張り付いていく。そういえば水分を摂るのを忘れていた。
「だ、大丈夫ですか」
(大丈夫、なんて)
出汁の味はしっかり米に染みている。美味に違いないお粥だが冷えたせいで米が糊状になっており、まるで薄味のついた水分の多いおにぎりみたいだった。
口の中に粘り気が残っているような気もするが何とかひと匙分を飲み込む。
「美味しいよ。でも、温かかったらもっと美味しかっただろうね」
これは本心だった。温かいうちに食べたかったという気持ちはあれど、俺のために作ってくれて且つ起きるまで待ってくれた彼女の料理が不味いわけがない。
「寝る前から何も飲んでないんだ。水を貰ってもいい?」
「あ、うん。……はい、どうぞ」
「ありがとう。……ふふ、君の料理が食べられるなら風邪をひくのも悪くないかな」
「なんてこと言うんですか……」
そんな可笑しなことを言ったつもりは無いのだが、彼女は眉間に皺を寄せてじとりと睨んでくる。
それは怒っていますという意思表示。実際に怒りに震えているというよりは「怒っていることを知って下さい 」といった非言語的表現だった。
渡された水で口の中を湿らせる。温くなった水が咥内を潤し胃に落ちていき、それによって空腹であることを意識してしまうと蓮華を持つ手が動く。
俺が食べ始めると彼女はその場に腰を下ろしてじっとこちらの様子を見ていた。食べ終わるまで待ってくれるのだろうか。
「君といられることが、俺にとって元気になる薬かな」
先程より気分が良くなったと感じる理由は睡眠だけではない、はっきりと分かった。こうやって君を独占することができて、なんて。そこまで言うつもりはないけれど。
さぁどんな言葉が返って来るだろうと顔を見ると、彼女は少し考え込んだかと思えば「じゃあ」と口を開く。いいことを思いついた、と言わんばかりの自信ありげな顔で。
「ここにいてもいいですか」
「え」
「長義さんも、私が一緒にいたら元気になるんですよね?」
「えっ? うん、……それは、もちろん」
「じゃあ、ここにいます。長義さんが眠るまで」
……いいのだろうか。本当に。
今日の仕事のことなど聞きたいことはある。あるのだが、それを言葉にすることで彼女の気が逸れてしまうのは嫌だった。
「ありがとう」
「ううん、いいんですよ。風邪をひいたとき、誰かが傍にいてくれたら安心しますもんね」
そうなのだろうか。否、確かにそうなのかもしれない。
その応えは既に俺自身の中にあった。

(11月6日は顕現記念日)