緑雨葬

※夢主の死後

その日は朝からずっと雨が降っていた。
灰色の広がる空は思ったよりも明るく、隣に佇む青年の顔色の悪さがよく分かった。雨とは違う滴が彼の長い睫毛を濡らしては音もなく落ちていく。
自然の恵みを受けて瑞々しく光る芝生を覆うように黒服の人々が並び、薄汚れた雲が敷き詰められた空に賛美歌が響く。中央の棺の中に入った彼女の姿を思い出したくなくて、シノは幼馴染の頬に流れる涙をじっと眺めていた。
「ヒース、本当に行かなくていいのか」
「っ、……シノ、こそ……いいのかよ」
嗚咽混じりに声を詰まらせながら、彼から返ってきた答えの意味が分からず首を傾げる。けれどそれに続く言葉はなく、仕方なしに黒い参列者の波へ視線を戻す。今自分達がいるのはその集団の中ではない。彼らを目視できるくらいの離れた木立からその様子を窺っていた。
生涯をブランシェットに捧げたアリエッタに子どもはいなかったが、同じ城で仕えた使用人達にとって彼女は家族同然だった。参列者の中には、彼女を「おばあさま」と呼び可愛がられていた若いメイドや、ヒースクリフの代に庭師として勤め今は引退した老爺の姿もある。ああ見えて昔から寂しがり屋なところがあった彼女も、これだけ大勢の仲間に見送られれば寂しくはないだろう。
「ヒース」
焦れったくなってもう一度呼ぶ。それでも彼は「行こう」とは言わなかった。ぐずぐずと鼻をすすり、泣きすぎて腫らした赤い瞳でじっと遠くを見つめるだけだ。
旦那様と奥様のときは立派に当主の顔をしていた彼も今は昔に戻り駄々をこねる子どものようだった。あの集団の中では、彼の孫である現当主が立派に喪主を務めているというのに。
とはいえ、ヒースクリフが泣き虫なのは昔からで幼い頃はシノが泣かせてしまうことも多かった。そのたびに彼女は飛んできて二人以上に大騒ぎをしていたのだ。歳を重ね、ヒースクリフが人前で涙を流すこともなくなって。そしてこれからは、もうその涙を拭ってくれる人もいない。
結局、葬儀が終わるまで二人は参列に入ることはせず遠くで見守っていた。
誰もいなくなった頃になってようやく墓の前に降り立つ。周囲を森林に囲まれた自然豊かな場所だ。大勢に踏みしめられたことで強くなった草の匂いが雨の匂いと混ざり、在りし日の光景が呼び起こされた。森の中を駆け回った日のことや窓越しに雨音を聞いた朝のこと。そんな数十年前の出来事が今も色彩を持って脳裏に映し出される。
「置く場所がないね」
持ってきた花束の置く場所がないことにヒースクリフは苦笑する。墓石を隠さんばかりに捧げられた花は、シノを誇らしい気持ちにもほっとする気持ちにもさせた。
賢者の魔法使いになってすぐの頃、中央の国の墓地の調査に向かったことを思い出す。死体が無くなる怪事件。そこに残されていた遺品の類を前にした会話でヒースと意見が別れたこと。死者のために高価なものを埋めることに意味なんてないと思っていた。それくらいならば生きていく者達に与えた方がいいだろう、と。
けれど今、こうして墓の前に供えられた沢山の花を見ていると、彼らの言っていたことが分かるような気がする。死者へ手向けられたものは、他の誰が横取りすることも許されない大切な思い出だ。
「適当でいい。どうせ数日で枯れる」
「…………まぁ、そうだけど」
ヒースクリフは素っ気ない従者の言葉に怒ることもなく両手に大事に抱えていた白い花束を端の方に置く。腫れぼったい瞼の下の碧眼が瞬きをして、シノの方を見た。そして彼らは視線を合わせて頷きを交わす。それが合図だった。
「《マッツァー・スディーパス》」
「《レプセヴァイヴルプ・スノス》」
二人が呪文を唱えると盛り上がった土の上にきらきらと光の粉が舞った。それがひときわ強い光を放った一瞬の間に、何も無かった土から小さな苗木が伸びている。膝ほどの高さしかないそれは群青レモンの苗木だ。
彼女が、遥か遠くへ旅立つ前に幼馴染達に託した願いだった。
『私のところにレモンが成れば、ふたりが取りに来てくれるでしょう?』
ここにはいずれ花が咲き、果実が実る。人間にしてみれば長い年月でも、おそらく魔法使いにしてみればほんの僅かな期間に過ぎないだろう。
「……これで、寂しくないだろ」
「すぐに様子を見に来るよ。だから、また」
「またな、アリエッタ」
名前を呼んだだけで腹の底から込み上げてくる熱が、喉を、鼻を通り抜ける。そうして眦から溢れて頬を伝っていく、ひどく熱いそれは雨なんかではなかった。