第一話 第一部隊隊長

左肩から腹にかけて走る袈裟斬りされた傷跡は未だ血が止まらず痛々しい姿を晒す。だらりと力無く下がった右手は自分自身である刀をしっかりと持ちながらもその切っ先から血を落とし続けている。それでも前だけを見据える彼が何を求めているのか、陸奥守には分かっていた。
だからこそ彼に確実に届くように声を張り上げた。
「長谷部、撤退じゃ」
予想通りこちらを見た長谷部の顔は苛立ちに顰められている。
「敵の本陣は直ぐそこだ」
地を這うような低い唸り声がする。相手の怒りに呑まれないよう、反射的に言い返すのではなく声音に冷静さをたっぷりと乗せ、思い出させるように事実だけを述べた。
「中傷になれば直ぐに戻る、それが主と決めた約束事やろう」
「っ……、戦を知らない子どもが決めたものだ」
苦々しく吐きだされた言葉。その言い様に憤りも覚えなかったのはそんな不満を抱かれていることを既に知っていたからだ。ただ、だからといって審神者との約束を反故にも出来るわけでもない。何か言いたげな視線に真正面から見返していると先に視線を逸らしたのは相手の方だった。それは会話の終了を意味する、慣れたとはいえ後味の悪い終わり方だった。長谷部は納得していないことを表情で見せながら、これ以上話すことはないと言わんとばかりに口を閉じる。
「戻るか。帰ったら手入れじゃ」
彼が口を閉ざせば他に隊長へ異を唱えるものはいない。異論がないのか、唱えても無駄だと思っているのか、それを確かめる術は今の陸奥守には無い。
──まだいける。此処を踏ん張れば本陣を落とせる。
声を上げた彼以外にもそう思う刀はいるだろうか。言葉には出さずとも審神者の方針に不満を抱いている者も、それに従う陸奥守を不愉快に思う者も。
けれど、自分は何があっても審神者との約束を違える訳にはいかない。あの子がどんな人間であろうとも自分は彼女の味方であろう、そう決めたのだから。本丸が生まれたあのときから、ずっと。

本丸へ帰還して負傷した者はすぐに手入れ部屋に向かった。中傷を負ったへし切長谷部とにっかり青江、軽傷だった小夜左文字と今剣、その四振りを見送り正門前に残ったのは陸奥守と鶴丸国永の二振りのみ。
先に行った彼らと同じ方向へ歩き出す陸奥守に鶴丸から声が掛かる。
「陸奥守、何処へ行くんだ? お前は負傷してないだろう?」
何処へと聞いておきながら彼には行き先の見当がついており、それは間違っていない。言い当てられたことに驚きもせず「やけんど」と振り返って続ける。
「心配なんや。長谷部は苛立っちゅーし、主に当たってもいけん」
戦場での様子を知っているからこそ不安になる。喧嘩になる、とまでは思わない。長谷部もまさか陸奥守に対してと同じ言い方で審神者に言いはしないだろう。そう頭で理解はしていても気持ちが落ち着かず、自然と足がそちらを向いてしまう。
「過保護すぎやしないか」
「な、ん……」
良い意味として使われる単語ではないだろう、それは。非難めいた視線を咄嗟には繕うことが出来ず、鶴丸はそれ気付き肩を竦める。
「おっと、誤解しないでくれ。俺は長谷部のように『子どもとしてではなく本丸の主として扱うようにしろ』なんて言うつもりはないぜ」
それは陸奥守が以前言われた言葉だ。本丸が始まって少し経った頃、第一部隊に六振り揃えて出陣できるようになった頃、長谷部が苦言を呈した。そこに込められた意味が分からない訳ではなかったが、とはいっても頷くことは出来ず、本当にただ言われただけ。
物真似か、なんて笑う余裕も今の陸奥守にはない。目の前の太刀の真意を探るため、顔色をじっと窺う。
「けど、あまり君ばかりが甘やかすのも良くないだろう。あの子はみんなの主にならなきゃいけないんだから」
「あの子は、みんなが主やか」
「みんなのと、言うわりにはあの子はまだ俺達に対して壁がある。そして壁を作ったままでも問題なく本丸はまわっている、優秀な近侍のおかげでな」
それは陸奥守自身もどこかで感じていたところであったし、触れられると痛いところだ。でもなぁ、と続いた声音は朗らかで、けれどその薄い金色の瞳はこちらの真意を探るように鋭かった。
「いずれ壊れるぞ。君か、主か……両方という可能性もある」
鶴丸が脅しや意地悪で言っている訳ではないことは分かった。伝わってしまった。なぜなら、陸奥守も今の状態が続けられるとは思っていない。
「鶴丸に隠し事は出来んなぁ。分かっちゅうよ。わしも、動かんといけんぜよ」
みんなに対して壁があるのは審神者だけの話ではない。動くのが怖いのは彼女だけではない、なんて。なんて情けない話だろうか。

鶴丸と別れて手入れ部屋に向かっている陸奥守だったがところどころから声が掛かりその度に足を止めることになる。
薬研藤四郎からは夕餉についての相談を受けて二三言交わし、畑当番だった宗三左文字からは収穫物の報告とそのついでと言わんばかりに小夜左文字の様子を聞かれる。宗三は「そういえば」とさも思い出したという風に言ったが、呼び止めた理由がこちらだというのはすぐに分かった。
(どう考えてもこっちが本題なんろうが……)
軽傷なので手入れ時間も掛からない。夕餉までには復活しているだろうと応えると、まぁそうでしょうね、なんて素っ気ない返事が返ってくる。そう言って背けられた横顔からほっと力が抜けているのを見て陸奥守も息をつく。小夜が無事で良かったのは勿論だが、こうやって彼を大切に思う兄弟の安堵した表情を見るとあのとき自分が下した判断が正しかったのだと思えた。
「手伝い札は使わんき八つ時には間に合わんかもしれん。小夜と今剣の分は持って行っちゃってくれんか」
「それくらいならいいですよ」
「あっ! ねぇ陸奥守、ちょっとー!」
「加州か、どういた?」
突然掛けられた声にそちらの方を見れば加州清光が彼の部屋から大きく手を振っている。手招きする彼に応え、宗三にはまた後でと言い残してそちらへ向かう。
陸奥守が近くの濡れ縁から草履を脱いで上がると呼んだときより声を潜めて「ちょっと聞いてよ」と加州が話し出す。
「山姥切のやつ、洗う予定だった布またどこかに持ってったんだけど……!」
「あぁ、なぁ……」
彼の口から同室である山姥切国広に関する不満を聞くのは珍しくはない。しかも陸奥守にしてみればどちらの気持ちも分かるのだから対応にも困る。
「さすがに無頓着過ぎない?! 俺だって五月蝿く言いたくないけど同じ部屋なんだから気になるんだって。でもそゆこと言うとアイツ、見栄えのことだと思って──」
この本丸が始まってから一ヶ月が経ち、刀剣男士が増えて最初と比べ余裕も出てきた。だがその分気にしなければいけないことも増えた。その最たるものが本丸内でのいざこざだ。
前の主の影響なのか陸奥守は交渉が得意だった。それに人見知りしない質で誰に対しても朗らかに会話を繋ぐことができる。けれどそれだけでこの本丸内を上手く回していくのは難しく、現に今の第一部隊のことを思えば溜息が零れそうになる。
相槌をうちながら気持ちを受け止めることしか出来ない陸奥守に、加州は言いたいことを言い切ると「ごめんね、いきなり引き止めて」と手を合わせて謝罪した。彼は喜怒哀楽が激しく感情に振り回されやすいが相手の気持ちを考えられる素直で良い刀だ。山姥切国広も言葉足らずなところがあるが相手のことをよく見ている、頼りになる刀だ。
この本丸にいる誰も悪い刀なんていない。誰かが間違っている訳では無い。だからこそ悩みは尽きないのだ。

加州と別れ少し急いで手入れ部屋に辿り着いたとき、ちょうど部屋から出てきた審神者を見つけた。あちらは陸奥守にまだ気付いていない。
彼女が部屋から出た肩の力を抜いたのが見えて小さな罪悪感に胸を刺される。それを掻き消すように明るい声を出した。
「あるじー! 帰ったがー!」
「……陸奥守さん? あっ、おかえりなさい!」
陸奥守を視界に入れるとその瞳に光が戻ったように見えるのは都合の良い錯覚だと思いたい。ぱたぱたと此方に向かってくるのを両手を広げて迎える。向かってきた勢いのまま、汚れるのも構わず飛び込んでくる身体を両腕で捕まえ頭を撫でてやると擽ったそうに肩を竦めた。
「手入れ終わりましたよ。あとは休んでもらうだけです」
「そうか……ありがとうな。大丈夫やったか?」
「何もないですよ、みんな無事でよかった」
何もない、と返したということは陸奥守の質問の意味も理解したのだろう。その答えが強がりや遠慮なのかどうかを、まだ自信を持って推し量ることは出来ない。それでも最初に比べて少しは分かってきたような気がする。
そうしてゆっくり距離を縮めていけばいいと陸奥守は思う。まだこの子は幼いのだから無理に焦ることも焦らせることもない。彼女自身の速度でいい。
(そうでなけりゃ、この子があまりにも可哀想やろう)
「みんなが無事でいてくれることが一番です」
それは彼女の口癖。何度も繰り返し口にして、そうであれと願うこと。
それは□□を失った彼女の、唯一許されたねがいごとだった。