今思えば本丸最初の刀である陸奥守吉行の初陣は散々だった。こんのすけに言わせてみれば「あれが仕様です」とのことらしいが、果たして必要な仕様であるかは未だに疑問である。
全身に切り傷を負い襤褸衣装が悲惨になるだけで済む筈もなく、数えることも嫌になるほどの傷痕から流れる血が足を進める度に地へ落ちる。そんな満身創痍な陸奥守を目の当たりにした彼女は逃げることすら叶わず、その場で腰を抜かしてへたりこんだ。
隣で「大丈夫ですよ」と呼び掛けるこんのすけの声の場違いなほど明るく、いっそ空々しい程に。何とかしてあげなくてはいけないと思う一方で身体は思うように動かない。此処にいるのが自分ただ一振りという現実に途方に暮れるしかなかった。
「審神者さま、手入れで治りますよ。大丈夫ですから」
「なおる……?」
こんのすけの言葉を拾ってぽそりと呟いた彼女の声に「ええ、ええ、大丈夫ですよ!」と大袈裟なくらい反応するこんのすけ。彼女はそろりと陸奥守の方を見たものの、その姿を見ていられなかったのか視線を外して唇を震わせた。葛藤しているのだと伝わってくる。
「早く手入れ部屋へ。審神者さま、手入れ部屋へ行かなくてはいけません」
「う、うん」
立ち上がることも出来ないまま這うようにしてこんのすけの後をついていく彼女の更に後ろ、距離を置くようにして陸奥守も歩き出す。思い出したかのように痛みがよみがえってきて思わず顔を顰める。こんな表情もこの子には見せられないだろう、ぼんやりと思った。
手入れ部屋に行った後は手際良く手入れを施され、その後暫くは安静にしているよう言われた。思ったより彼女の手つきは危なげなく、驚くほど早く全身の傷は癒えていった。これが手入れ──人間の治療ではない、刀剣男士だからこそできること。
手入れを終えてすぐに部屋から出ていく気にはなれずぼんやりと胡座をかく陸奥守に何を思ったのか、審神者は心配そうに眉をひそめて顔を覗き込んできた。
「体はいたくありませんか? 何か、飲み物を持ってきましょうか?」
「…………。ほうか? えらい悪いのぉ……」
謝罪の意を込めて顔の前で手を合わせると「ううん、いいんです」と少しだけ明るさを取り戻した声が返ってくる。帰還してからは初めて見る笑顔だ。
笑顔には笑顔で返しつつ、部屋の隅にちょこんと座っているこんのすけを横目で確認する。彼に聞きたいことがある。
「頼んでええがか?」
「はい。少し待っててくださいね。休んでてください」
「…………」
少女がそう告げて部屋を出ていくのを見送る。不安げな瞳は気遣わしげに揺れ、部屋を出る直前まで陸奥守から外れることは無かった。彼女の姿が障子の向こうに消え、小さくなっていく足音がやがて聞こえなくなったのを確認して陸奥守は口を開く。
「あの子どもは、審神者に向いちょらんやろう」
一目見たときから抱いていた予感は口に出してみると一気に自分の中で確信に変わった。
あの少女が審神者に向いている筈がない。どのように決められたかは知る由もないが、むしろどの部分を評価し選ばれたのか疑問しか出ない。
こんのすけはまるでそう言われるのが分かっていたかのように、顔色も声音も何一つ、少しも変えることなく「ええ、ええ」と何度も頷いた。
「重々承知しています。あの方は戦いの最前に立つには早すぎる」
「審神者ちゅうんは、あの子がやないといかんながか? あんな年頃、親御も心配しちゅうやろうに」
時の政府の事情など知らないが、彼女が審神者という役割に向いているとはどうも思えなかった。
「陸奥守吉行」
ぴりり、と管狐が纏う空気が硬いものに変わる。感情の読めないどんぐり眼が真正面から陸奥守を見据えており、その常ならぬ様子にてっきり口が過ぎたことを咎められるかと身構える。だが帰ってきた言葉は想定外のものだった。
「審神者さまにもう家族はいません」
「はぁ?」
反射的に声が出る。こんのすけは構わず続けた。
「もうあの方に帰る場所はないのです。家族は既に亡く、彼女の存在は歴史から消されている。あの方は本丸以外では生きられない」
それはどういう意味なのか。疑問には思えど問い詰められるような雰囲気ではない。こんのすけが口にした言葉の内容だけが事実として落ちてくる。まだ刀剣男士として顕現したばかりの陸奥守にはそのことが人によってどのような意味を持つのか、想像は易いものではない。ただそれがごく普通の生き方ではないということは知識として理解できた。
(訳アリちゅうわけか)
「……ほりゃあ、わしが知って良かったんか」
政府の個人情報の管理などあってないものなのか、若しくは此処の審神者が軽んじられているのか。できれば前者であってほしい。不信感の隠されていない眼差し、声音には咎めるような棘。陸奥守からそれを感じてという訳でもないだろうが、こんのすけは声を低く潜めた。
「できれば貴方だけの胸に留めておいてください」
そうして、陸奥守の目には狐の小さな頭が下がったように見えた。
「陸奥守吉行。どうか覚えていてください。あの方にこの本丸以外の居場所はないのです」
「……それは──」
その言葉の意味自体は何か、それを自分に告げた理由は何なのか。腑に落ちないことは山ほどあるものの首を緩く振ってこれ以上の詮索は止める。ここで追求したところで事態が好転することでもない。
その代わりこれだけははっきりさせておかなければと、一つの問いを投げかけた。
「おんしは、あの子の味方ながか」
陸奥守にとって何を考えているか分からない「時の政府」。そんな彼等の手足ともいえるような管狐がこの子の味方であってくれるのか。
「ええ、もちろん」
間髪入れずに返ってきた答えをひとまずは信じることしか出来なかった。
一振りと一匹の空間にそれ以上会話が続くことは無く、遠くから聞こえてくる足音が内緒話の終わりを告げた。頼りない足音が止まることなく部屋の前までやってくると、そろりと障子が開かれる。
部屋の中の陸奥守を見てから、視線を傍のこんのすけに移す。
「こんのすけ、冷蔵庫にあったこれ使っていい?」
こんな砕けた話し方もするのか、と表情には出さなかったが内心驚く。これ、と彼女が掲げたのは透明の容器に入った液体だった。白く濁っているそれはどうやら茶ではなさそうだ。
「ええ、大丈夫ですよ。ある程度政府からの支給が入っています。使っちゃいましょう」
「なんじゃろ、これ」
「スポーツドリンクです。……えぇっと、持てますか?」
ぱき、とした軽い音は封を開けた音のようだ。慎重に差し出されたその容器は口を付ける部分がとても小さい不思議な形状をしている。零さないように注意を払って口元に運び、その中身を含めば何とも言えない味がした。塩のようで、ただ辛さはそこまで強くない。汗の味に似ているがそれとも違う。
「お二方、今日はもうゆっくりとお休みください。審神者さま、明日は初めての鍛刀をやってみましょう」
「うん、……新しい神様がくるんだよね?」
「そうですよ。審神者さまの、新しい仲間です」
励ますように弾むこんのすけの声とは正反対にこくりと頷く少女の表情は固い。純粋な歓迎の気持ち以外に思うところがあるのか、若しくは単純に緊張によるものか。けれど陸奥守が口を挟む間もなく話は切り上げられる。
「むつのかみさん。今日は、ここで寝てもいいですか?」
「ここ……かえ?」
此処というのは手入れ部屋のことで、審神者が休むような場所ではないことは確かだ。だからこそ彼女も御伺いを立てたのだろう。ここは刀剣男士の場所であり、こんな血腥い場所ではなくてきちんとしたところで休むべきだ。断る理由ならばいくらでも思いついた。それでも。
「……おぉ、勿論じゃあ」
迷子のような目をして陸奥守の傍にいようとする彼女を跳ね除けることなど出来るものか。
「良かった……!」
稚い顔に安堵の笑みが浮かぶ。陸奥守もまた自分の答えが間違いではなかったことに胸を撫で下ろした。彼女が不利益を被るなら真っ先に口を出すだろうこんのすけも沈黙を貫いている。ならば何も問題は無いはずだ。
この部屋に寝床を整え始めようとする一人と一匹を見ていると、胸か腹あたりから込み上げてくる何かを口にせずにはいられなかった。
(おんしゃあは、これでええがか?)
それは戸惑いでもあったし憐憫や憤りの感情も含まれている。けれどこれを口にしたところで、その答えが彼女の中にあるとも思えなかった。
「おんしは、頑張り屋さんじゃな」
聞くことのできない問いを喉の奥で殺し、代わりに労いの言葉をかける。それを彼女が望んでいるかは分からない。
「ひとりじゃないからがんばれます。こんのすけも、むつのかみさんもいてくれるから、大丈夫です」
良かった、と思えたのは少女がどこか誇らしげに見えたからだ。
ふと、こんのすけの台詞がよみがえり、陸奥守の前に天啓のごとく一つの使命が差し出される。刀剣男士として歴史を守ろうとする本能ではなく、むしろとても人間らしいそれは澱みなく紡がれた。
「大丈夫じゃ。おんしは一人やない。わしが傍におるきに」
気休めの戯言などではなく、心からそう思った。心など、生まれたばかりの付喪神には何処にあるかも分からない筈なのに、だ。
自分はこの子の傍にいて、何があろうとこの子の味方であり続けよう。そう決めたのだ。